俺らが生きた分だけ未来は発展する

今日の日記を書いていくぜー!
旧ツイッターの鍵アカを運転し始めた!
もどってきた!とつぶやいたらメッセージを送ってくれた人がいた!

わああ!双方向性!!
と少し感動した、ものの、返事がこっちの内容を繰り返すことの連続になったタイミングでメッセージの応酬を中断して寝た。

関心ごとって一人一人違う。
なんか情報発信の上手い人は、自分の関心ごとを相手にとっても関心ごとにしてしまえるのかな。

まあ、俺だってデジタルでモチベーションのある時にエロショタ絵を描けばそれなりにブクマしてもらえるし、そういう点では、自分の表現を相手の関心ごと化することはある程度できてるんだろうか。

結局俺は子供の頃のような友人関係を求めてるのかもしれない。

同じ地域、同じ学校、当時はネットも無く、限られたテレビのチャンネル。

話題や関心ごとが、構造的に、限定されていた。

つまり、互いが近い願いや理想を持って生きてる、と、非言語的に共通了解がある中で生きてるのが、懐かしくも繰り返したい世界観なのかもしれない。

今それを阻むのは、同じ世界に生きる人同士の、言葉の壁、共通言語の壁。壁なんだな。

不特定多数に向けて、情報発信をすることが、近い思想の仲間とか同士というものを見つけたり出会えたりする手っ取り早い方法、なんだと繰り返し言ってる人をウォッチしてた時期があったので、なんとなくそうなのかな、と俺は思ってる。

だけど、ネットの双方向性っていうのも、相手の人生に参入することの敷居の高さってのは、みんな感じてるのかな、と思う。

10年前なら、俺も27歳で、人の意識に革命起こしたい的なこと思ってたけど、まあ、それは局部的なレベルでの話で終わって良かったのかな、という気もする。

ショタコンといっても様々だ。

二次元でいい人、三次元も欲しい人。実物に触れたい人、そうではない人。

一絡げ、一緒くたにしてかくあるべき、何を目指そう、みたいな論調を醸成するのには無理があるみたいだ。

昨今のSNSの分岐によって、各自のゾーニングと各自の表現のバランスが取られてて。

それでも俺なんかは、本質的には、自分の好きなものが社会から悪とされる時、人はいかにあるべきか、なんてことを哲学したいな、とか思う。

それは、家族が犯罪者になってしまった人の気持ちに思いを馳せることだろうか。

罪なら償えば一旦終わるけど、いつまでも実行されない、未然の罪の可能性、自分が少年愛者として抱えてるのはそういう、悪意とも愛欲ともつかない、少年を美と観る感性や感覚の問題なんだよな。

まとめとしては、自分が少年愛者であるという点において、自分が特異な存在であるって自己認識を意識しやすい。でもそれって何がしかの少数派に限らず、誰しも声にならない生きづらさとして抱えてるのだろうなと思う。

そんで、生きた価値やあかしっていうのは、未来に必ず継承される。

俺らが今生きた分しか未来は発展しないんだ。