人生全体から見る無駄の無さ

人口の数だけ、人生がある。

現代人だけでも。

人間の歴史の中で、生まれた人の数だけ、人生が存在した。

もし俺が37年生きてきた人生経験から、これはいいんじゃないかという考え方を示すとしたら、「自分の嗅覚を信じて行動してく」ってこと、です。

不幸も幸運も、合わせたうえで、人間は誰でも唯一無二の経験則を持ってるわけじゃないですか。

ふとした瞬間に、なんのために生きてるのか、なんて疑問がわく。

その瞬間に、「自分の嗅覚を信じて行動する」ってことを実践してりゃ、人生は明るい方向に進んでいくんじゃないかと思う。

短期的に発奮した目標、それが全然達成できなかったり、満足できなかったり、そういうことってあると思う。

でも、長期的に見ればすべて伏線の布石で、おもしれええええ!!って分野なりといつか出会うもんなんじゃないかと思う。

苦手なことって誰でもあると思う。

優秀な人でも、穴の開いたポケットのように、「え、君がそんなこと知らなかったの!?」って言われるような、知識の穴。

学校で教わるようなことなのに、その授業がどうにも苦手で、なんとなくよくわからないまま済ませてきた、というような。

それは、その時の定説より、より自分に合った観点での新情報や発見のニュースとかで知見を得たほうが自分のためになる、と、不思議なんだけど、人間が時間を超出した視点を持ってるようなさじ加減で絶妙に無意識にコントロールされてるのではないか。

自分の嗅覚を信じて行動する、ってどういうことか、一緒に考えてみてほしいんだけど、流行ものや、平均的な知識じゃなく、自分はこれが面白い、もっと知りたいって思うようなことを追求していくこと。

これが学校の授業の内容と合致した子が勉強を楽しんでいけるんだろう。

でも、教科書で採用されてる文章のレイアウトを考えてみてほしい。

このご時世じゃ発達障害とか境界知能とか、情報伝達のフォーマットに適合できない側の人間に問題があるとみなす。

だけど、AIで即興の教科書なんてのが瞬時にカチカチと、その都度生成できるとしたら、そこでようやく個人の資質と勉強のチャンスが平等になるのではないかと思う。

そう、時代柄、情報伝達の肝だった本という媒体と相性のいい人間は恵まれていたのだ。

これは知的障害にも言える。

障害者を障害者たらしめる要素を取り除けるようになった時、そこでただ気の毒な存在、っていう不平等な状況を個人が抜け出していけるんだろう。

ただ、一寸法師を打ち出の小槌で平均的な大きさにして、ハッピーエンドとするのはどうなのか、という劇作家なんてのもいた。

障害を個性とみなすこと。そういうのに俺が初めて出会ったのはナイトホスピタルってドラマなんだけど、メインキャストに夜の病院の院長だかがいて、その息子が聴覚障害を持っていた。

治療法はないではないんだけど、聴覚障害はあの子の個性なの、と院長。

ドラマでは結局治療してその子が聴覚を得ることになったけど。

能力の欠損、という個性。

SDGsとかが世界的な目標になって、サスティナブル、持続可能なことへの関心が高まってるよね。

観えなかったことが可視化される手法がどんどん確立されていき、これから新発見はますます増えていく勢い俺はを感じてる。

個人的には菌のネットワークのことに知見を得ることが激熱だ。

無機物のほかにキノコの胞子なんてのが雲の核になってることがわかってきてたり。

むずかしいことより、小学生でもへえー!って思うような発見が俺は面白い。

一番関心があるのが森林の地面の下の根っこや菌根菌のネットワークで行われてる菌のコミュニケーション。

菌たちがどんな人格を持ってて、どんな会話をしてるのか、俺は興味津々だ。

俺は統合失調症を診断されてて幻覚幻聴も楽しんできたんだけど、そういうときの状態を陽性症状と精神医学のほうでは言うみたいなんだけど、それは存在しない刺激を知覚する状態とざっくり表現しておく。

だけど、存在しない刺激を知覚するなんて可能なのかと俺は思う。

菌のネットワークにヒントがありそうだと俺は目星をつけている。

自分の観てきた幻覚に客観性を宿せるとしたら、それは夢のような話だ。