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[essay]割れたマグカップと心の黒いモノ

夜に洗い物をしていて、愛用のマグカップを割ってしまった。水切りして脇に伏せてあったのを、うっかり床に落としてしまったのだ。

手が当たった瞬間、「まずい」と思った。吸い込まれるようなスローモーションで、“お気に入り”が遠ざかっていくのを見た。そして、嫌な鈍い音を聞いた。自分の胃の辺りから響いてきたような気がした。

カップは決して高価ではない美濃焼で、何の気なしに覗いた近所の雑貨店で見つけ、ティファニーブルーのような美しい色に惹かれて自分用に買ったものだった。ところが最初のコーヒーを淹れて手に持ったとき、思わず笑みがこぼれた。食器でそんな感覚を覚えたのは、はじめてのことだ。しっくりきたのである。

なんだろう、この心地よさは?

重み、厚み、全体の丸み、それらがわたしの手にすんなりとフィットしていた。今までマグカップにこだわったことなど一度もないくせに、「ああ、ずっとこんなのを探していたんだよ」と頬ずりせんばかりだった。その一杯を飲み終えぬうちに、店に並んでいた色違いをもう一個買っておこうと決めた。いつ壊してしまうかわからない。そのときに販売終了していたら困る。

しかし店が近所過ぎるせいか、「まあ今日じゃなくてもいいか」と通り過ぎてしまったり、買うことそのものを忘れてしまったりで、いつまでもスペアを用意できなかった。毎朝コーヒーを淹れるたび、またそれを洗うたびにそのことが頭をよぎり、今度こそ絶対に買おうと買い物リストに「マグカップ」とメモしたのは、つい先週のことだ。

床から拾い上げると、カップは見事に把手が取れてしまっていた。わたしはそれを、キッチンカウンターの上に置いた。

実は数か月前、店を覗いたらもうあのカップは置いておらず、一度諦めていた。ところが最近、二色とも一個ずつ陳列されているのを見た。あのとき買っておけばよかった。友人たちとの食事会に行く途中だったため、壊れ物を持ち歩くのはやめておこうなどと、延ばしかけた手を引っ込めなけれなよかったのだ。

散った破片を掃除機で吸いながら舌打ちをすると、先ほど鈍い音を出した気がした胃の辺りから、ある黒い感情がのっそり頭を出してきた。それは今朝、起き抜けに抱えたものだった。

* * *

読んだ本を管理するアプリがある。一種のSNSで、本好きたちがレビューを書き、意見を交換し合ったりもしている。わたしはときどき、そうしたアプリで自分の本をチェックする。著者としては、読者の感想ほど嬉しいものはないのだ。たとえ批判であっても、心からありがたく読む。褒めてくれていれば、何度も噛みしめる。

今朝、そこに妙な書き込みを見つけた。今年出した『怖いトモダチ』のコミカライズ版への、あるレビューについていた短いコメントだ。

まず、元のレビューの末尾に次のようなことが書かれていた。

原作者のあとがきに『セクシー田中さん』を意識したと思われる記述があった。(漫画家の芦原妃名子さんを)非難してはいないが、胸にしこりが残った。

(概要)

この方が言及しているのは、わたしが書いた以下の一文のことだと思う。

『残花繚乱』がドラマ化されたときも、前回の『気がつけば地獄』が漫画化されたときもそうでしたが、わたしは今回も「どうぞお好きに料理してください」というスタンスで、原作を提供いたしました。別の才能の手が加わる限り作品は別物になる、という考えからです。

コミック版『怖いトモダチ』原作者あとがき

このあと、漫画家のやまもとりえさんが素晴らしい漫画作品を完成してくださったことへの、感謝と称賛の記述が続く。

「原作者あとがき」は、『セクシー田中さん』問題が炎上しているさなか、編集者から急に頼まれて書いたものだった。当然『セクシー田中さん』問題を意識した。同じ"原作者"という立場から、意識しないわけにはいかなかった。だから、あれを読んだ人が『セクシー田中さん』問題と結びつけるのは、不思議なことではない。

レビューの書き手も書かれているように、文中に芦原さんを非難している箇所はない。そもそもわたしは同じ作り手として、また多少テレビと関わり、その中で決して嬉しいとは言えない経験をしたことのある者として、芦原さんには同情しかなく、『X』ではテレビ局と出版社に対する疑念を吐露してもいる。何よりこの一文は、『セクシー田中さん』問題が起こる前から持っているわたしの考え方であり、それ以外の何でもない。

しかしそれでも、このレビュー投稿者が違和感を持ち、胸にしこりを持たれたのは事実だ。わたしは自分の文章力不足を省みつつ、受け止めるしかないと思う。

さて、問題はこれに対してついていたコメントである。

同じことを感じた。芦原先生のことに触れたあとがきが気になり、芦原先生が悪いような感じを受けた。 だから、原作を読もうと思っていたがやめた。

(概要)

まるでわたしが「あとがき」で芦原さんに言及し、彼女を暗に批判したように読める。事実はまったく違うのに、誰が読んでもそう受け取れてしまう。とても悔しく、とても悲しく、そしてとても嫌だった。

朝から胸にのしかかったこの黒い感情は、思い出すたびに重たくなっていった。「些細なことだ」と、斜め上から声がする。しかし気は晴れない。ああ嫌だ、いったい何人の人があのコメントを読むだろう、そしてわたしをどんな人間だと思うだろう、長いものに巻かれる卑怯なヤツだと思うに違いない。非常に不本意だ。

* * *

明日、あの雑貨店に行こう。

のろのろと床を始末したあと、そう思いつつ店のオンラインショップをチェックした。しかしあのマグカップが見つからない。実店舗でしか売らない商品なのだろうか。それとももう完売してしまったのだろうか。

すっかり気落ちしてページを繰るのを止めようとしたとき、色とデザインからあのマグカップと同じシリーズだと思われるスープボウルが目に飛び込んできた。商品名に、メーカー名とブランド名が明記されている。店頭のPOPは値段のみで箱にも説明書などなかったので、わたしはそれらをはじめて知った。

さっそくウェブ検索すると、楽天に愛しのマグカップが現れた。わっと胸が躍る。「明日お店に行けばいいじゃん」「でも売り切れている可能性もあるしね」など脳内のわたしが言い合っているうちに、指がポチッと購入ボタンを押した。色違いで一個ずつ、計二個。

これで一つ、気がかりがクリアになった。気がつけば、胃の辺りにあったあの黒いモノは引っ込んでいる。今日はもう、それでいいことにしよう。もう一つについては、届いた新しいマグカップで美味しいコーヒーを飲みながら、ゆっくり落ち着いて考えればよい。

パソコンを閉じ、キッチンカウンターのマグカップの痛々しく剥き出しになった傷跡に、そっと触れた。

* * *

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Title Image by BRUNO CERVERA from Unsplash

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岡部えつ(小説家)
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