禍話「白桃」
少年時代の記憶だという。
Aさんの家では、夏の終わりになると桃や林檎や西瓜など、冷やした果物を器や皿に盛って、「水菓子」という紙を下げて、連日親しい近所の人々に振る舞っていた。
「まぁ、家建てたじいちゃんの代からのしきたりというか、暑気払いの行事だったんだよね」
そのイベントにおいて、奇妙な工程があった。
「別にね、器が一個分けてあって、それをお寺さんに持っていって、って渡されるんだよね」
皮の剥かれた桃がいっぱいに盛られたガラスの器を受け取って、お父さんや叔父さんが、Aさんの家のある通りから裏道に入って、突き当たりの所にある小さな寺へと持っていく。そこの戸の前に丁度良い日陰があるので、台に乗せて置いておくのである。次の朝に取りにいくと器は空になっている。
その寺というのが変な寺で、お堂一つの随分とこぢんまりとした造りなのと、裏道の突き当たりに嵌め込むようにして建てられているせいか、やけに息の詰まるような印象を与える。なにより、葬儀や法事を一度もそこでしたことがなかったらしい。大体その辺の人々は、少し離れた場所にある別のお寺の檀家であって、そういう行事はそちらでやっており、住職とも普段から親しみがあった。では裏道の寺のほうはというと、寺としての名称もはっきりせず、“お寺さん”とだけ呼ばれており、普段住職らしいお坊さんが出てくることすらなかったから、子供心にも異様に映っていたそうだ。
「いや、それどころか、うちのその桃のお供えのとき以外、碌にそのお寺と関わった憶えが無いんだよね、そんだけ近い場所にあるのに」
そもそもその寺には誰も住んでいないのだとか、そういう風に言われていたこともあったそうだが。
「まぁ誰も住んでなかったら、尚更お供えが謎でしょ。桃もちゃんと無くなってるし」
とはいえAさん曰く、小さい頃からそういう事をしていたので慣れてしまってもいたらしい。普段はそんなに意識することもなかったそうだ。
「ただ、その…夏のその、暑気払いのときにね?」
お寺さんに持っていく桃というのが、明らかに他よりも良い桃だったそうだ。
「まぁその、ずっとその…美味そうだなぁ、って。まぁまぁ、悪ガキの頭の中なんてね、悪戯とつまみ食いだけだし」
A少年は密かにその桃を狙っていた。
ある年の暑気払いの日、普段からよく分からないお寺さんへの興味も相まって、とうとう決心したA少年は日暮れ前に忍んでいた。
道を辿り、いつも通り扉を閉じきった寺の前まで来ると、いつも通り、桃はまだそこにあった。早速、一つを失敬して囓ると、やはり美味い。日陰とはいえ、夏の盛りに一時間以上放置していたので温くなっているだろうと覚悟していたのだが、不思議と冷たいままであった。
「あぁでも今、こうやって話してみるとおかしいよね。あー、でもその時はそこまで頭が回らなかったなぁ」
もう一つ、二つと、桃を取ってかぶりつきつつ、ふとお寺さんのほうを見ると、段の上の扉が全開になっていた。あれ、いつの間に開いたんだろう。そう思いつつ、目は中へと吸い寄せられる。Aさんはその時、初めてお寺さんの内部を見た。戸のところから、灯りの付いた燭台がいくつも列になっている。部屋に入ったところからいきなり、仏様を祀る内陣が大きく見えている。
とても違和感があった。奇妙に奥行きがない。お寺の中というより、家の仏壇を開けたときみたいだと思った。
そして、色々なものがごちゃごちゃして置いている段の上に、真っ白いお坊さんがむこうを向いて座っていた。白一色の法会や袈裟を付けているからお坊さんと分かったそうだが、頭の上からは大きな布を無造作に被っていた。微動だにせず座っているので、最初はそういう置物が置いてあるのかと思った。
「でも、置物じゃなかったんだよ」
ぽかんと見つめるAさんの前で、布を被った白いお坊さんがゆっくりと立ち上がった。そして、ゆるゆるとこちらへ向き直りながら、のそのそとした奇妙に緩慢な動きで外へと出てきたのだという。
「やー、ビビってね。慌てて逃げたよ。訳分かんないもん」
食いかけの桃を放り出して、木の陰へと走り込んだA少年が恐る恐る見ていると、お坊さんはそのまま、のそのそと桃の置いてある台の所までやってきた。そして、頭に掛けてある大きな布をまるで皮を剥くようにしてぺろっ、と捲りあげると、器の上の桃を食べ始めた。A少年はそのときに、お坊さんの顔を見てしまった。
「顔がねぇ、真っ白だったんですよ」
白塗りなのではなく、本当に透き通るような白い地肌だった。それだけではない。
「あのね、口というか、歯が…わーって、こう、ものすごい大きい口に、えぇっとね、真珠の粒みたいな、ぴかぴかした歯がびっしり並んでてね、もう、普通の人よりも全然歯が多いんですよ。何十本あったか分からない」
のっぺらぼうというわけではなかった。目や鼻や耳などがあったはずだったが、それがどうだったのかよく覚えていないという。
「いやだからもう、口と歯が、凄すぎて。顔の印象がそれだけになってるかな」
完全に固まってしまったA少年の前で、異様なお坊さんは盛られた桃を掴みあげて、しゅぶしゅぶしゅぶ、と音を立てて次々と貪っていた。一つ、また一つ、口で吸い付いて抉り取るようにしながら、汁をあちこちに垂らして。器の上から桃が消えるのに、さして時間は掛からなかった。全てを平らげると、お坊さんは布でまた顔を覆い隠して、のそのそと足を擦りつけながら、まるでビデオの逆回しのようにお寺の中に帰っていった。そして最初と寸分違わず、全く同じポーズで座った。
「今目の前で見たのが嘘みたいに、最初からそこから動いてなかったみたいに、一瞬そう思っちゃったもんね」
お坊さんが元の置物状態に戻ると共に、戸が誰も触っていないのに、ギィィと軋みながら、パタンと閉まった。中から漏れていた灯りが消えて、日暮れの薄闇の下に沈黙した真っ黒いお寺さんだけが残った。暫くの間その扉を見つめるでもなく見つめたのち、A少年は自分でも分からない何事かを叫びながら、逃げた。家に帰りつくと、お化けを見た、と言って訴えた。
「無茶苦茶に言ってる俺をじいちゃんが仏間に呼んでなぁ、あんなの見た後だから仏壇も怖かったんだけど」
おじいさんはA少年を叱るでもなく、正座させると真剣な顔で、あれはお化けじゃないという説明をした。怖い人ではない、可哀想な人だとか、お坊さんの格好をしているから余計苦しみも深いはずだとか、夏に桃を供えるのは自分たちなりの供養のようなものだとか。
「あんまり細かいところは、よく覚えてないんだけど」
ただ別にこの家と因縁があるものではないということははっきり言われたそうだ。どちらかというと、土地に関係のある人らしいと。わずかでも関わりを持っているのは、ご近所というのはそういうものだから、とも言われた。
その後、お寺さんとは関わりのない災いや出来事が色々とあって、Aさんが中学校になる頃にその場所を引き払うことになった。結局、その時まで毎年毎年夏のお供えは続けられていたが、Aさん本人はお寺さんと関わることはなかった。
「じいちゃんはああいう風に言ったけどね、やっぱり怖かったですよ」
後になって、一遍にあの時の記憶がフラッシュバックした瞬間があったとAさんは言った。それは、ごく小さい虫か何かの口元を顕微鏡で拡大した映像だった。無機質に細かく細かくじわじわと、蠢いてものを削っていく様子が映っていた。あの日、作り物みたいなお寺さんから出てきて桃を貪っていた白いお坊さん、その口元の印象がそれとそっくりだった。
「あぁ、あれはお坊さんというよりもでかい虫みたいなものだったんだなぁって」
Aさんは思わず総毛立ったのだという。今でもAさんはそういった映像が苦手だそうだ。
おわり
※このお話は、怪談ツイキャス「禍話(まがばなし)」から、一部を編集して文章化したものです。
※出典 シン・禍話 第十六夜 2021年6月26日放送
余寒(よさむ)さんの怪談手帖「白桃」
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