酔うってどういうこと?
マレー半島東海岸に住むと西海岸の人たちと比べて本当に保守的だと感じることがあります。旅行だけではなかなか感じ取れないのですが、そのあたりのことを少し書き記しておきます。
この前、東海岸のマレー人と話をしているときにふとお酒の話が出ました。そのとき、このマレー人男性は
「お酒に酔うとどういうことになるの?」
と聞いてきました。さらに僕が
「お酒飲んだことがないの?」
「うん」
との回答。彼はクアラルンプールにも10年ほど住んでいましたが、あれだけお酒がすぐに手に入る環境にあるにもかかわらず、飲んだことがないというのにはびっくりしました。
首都圏のマレー人、特に若い人は毎日のようにビールを飲む人がいます。もちろんアルコールを飲むことはイスラーム教徒にとってご法度ですが、飲む人は飲むのです。この男性はクアラルンプールで友人と住んでいたらしいのですが、友人は毎日のように飲んでいたと証言していました。
しかし、首都圏などでしばらく働いていた(現在も働いている)東海岸の人はお酒には一切、手を付けないようです。子どもの頃からお酒がない環境に育ち、お父さんが酔ってへべれけになっているところを見たこともないのでしょう。イスラームの「お酒は絶対飲んではいけない」という教えは東海岸では強く人々の心には根付いているようで、日本に留学した東海岸出身のマレー人もお酒はまったく飲まないとのこと。
このとき彼が質問した「お酒に酔うとどういうことになるの?」という質問はなかなか深い質問で、このとき僕には答えることができませんでした。
マレー語で「酔う」というのはmabukといいますが、この言葉をマレー語辞書で引くと「アルコールの飲料を飲んで頭が痛くなること(記憶がなくなる、意識がなくなる)」と書いてあります。対応する単語があるということは概念があるということになります。ただ、実際に経験していない人に酔った状態のことを説明するのはなかなか難しい。
西海岸のマレー人の名誉のためにいっておくと、彼らはお酒は飲みますが、さすがに豚を食べる人はいません。豚を食べてしまうと、どうも一線を越えてしまう感覚が彼らにはあるようです。豚を食べる感覚は日本人でいうと蛇を食べるのと同じくらいの感覚といったほうがいいでしょう。つまり、豚はゲテモノのレベルになっているのです。
一方で、先に話した男性は「映画は毎週映画館でみたい」とも言っていました。実はクランタン州には映画館がありません。映画館は男女のいかがわしい行為(未婚同士で手をつないだり、キスしたりすること。映画館でそれ以上は日本でもだめですが)を助長させる場として解釈されているほか、欧米などの映画で肌を露出させるシーンもあったりして、これがよくないともされているのでしょう。ちなみに、欧米の映画は上映前にマレーシアでは当局に検閲され、不適切な場面は映画館やテレビではカットされます。特に肌の露出があるシーンはそのままカットされるので、話がよくわからなくなるときもあるのです。
クランタン州に住む人は映画館で映画を見たいときは隣のトレンガヌ州に車で片道3時間かけて見に行きます。クランタン州では数年前に映画館ができる予定でしたが、論争が加熱して結局頓挫。今もまだないのですが、華人たちはマレー人政治家のあまりに保守的なところにうんざりといったところのようです。
トレンガヌ州の映画館も数年前にできたばかりなのですが、こちらは座席は男女に分かれているようです。つまり、映画館でのデートはできない。家族席があって、そこは男女で座れますが、入館前に身分証の提示が義務付けられています。
話を戻すと、この男性はクアラルンプールでは毎週のように映画を見ていたとのことです。どうも映画に関してはどのマレー人も受け入れているようで、映画を見ることに関してはイスラームの教えには厳格ではない。もちろん人にもよるのでしょうが。。。
また、東海岸ではマレー人の伝統舞踊ジョゲットや劇マット・ヨンといったものは禁じられています。こちらは他の宗教的要素も入っていることが理由のようですが、音楽や怪しい踊りがダメなのでしょう。イスラーム世界であまり音楽も発展していないところを見ると「精神的に酔わせてしまうもの」、つまり「心酔させてしまうもの」は一切ダメなのかと思います。
映画は何本も集中して見たり、面白かった映画を見ていると、自分がその世界に入ってしまうような感覚にも誘われるので、これが「酔わせてしまう」という解釈にもなるのかもしれません。僕はあまり舞踊には興味ありませんが、以前にタイで見た舞踏はあまりのすばらしさに感銘した記憶があります。それと同じような感覚をどうもイスラームは禁じているのではないでしょうか。
お酒を飲んで酔うのと映画や舞踊を見て酔うのとでは感覚は異なりますが、東海岸の人たちはこの境界をどう敷いているのか。心酔時間の長さの問題ではないのでしょうが。いま、ふと思いましたが、心酔してしまうことがダメであるため、もしかすると小説といった文学もあまりマレー文化で発展していない理由がここにあるのかもしれません。いずれにしてもこのあたりはもう少し観察してみることにします。