標準語と方言のはざまで
マレーシアの一地方都市に住み始めてから標準語と方言についてよく考えるようになりました。私は東京生まれ、東京育ちなので、至って日本語の方言についてはよくわかりませんし、自分が話す言葉のなかに方言が入っていることもありません。
いつも思うのですが、方言を使っている人はどのように標準語に切り替えて話しているのか不思議なのです。もちろん日本語の方言で話されると東京生まれの人間にとっては言っている意味がわからないので、標準語をもってきてもらわないと通じません。方言を話す人は自ずとすっと切り替えています。地方の人たちがこの標準語をどこから習得するかというと、学校やテレビからなのでしょう。この切り替えはもしかすると、日本語を話していて、日本語がわからない人にすぐに英語に切り替えるのと同じ感覚なのでしょうか。
マレーシアのマレー語にも方言があります。マレーシアでマレー語は公用語になっていますが、実は各州にはそれぞれの方言があります。特にマレー半島東海岸の方言は首都で話されているマレー語とは異なり、西海岸で育ったマレー人は東海岸の方言を聞き取ることができません。東京の人が鹿児島や沖縄の言葉を聞いてもわからないのと同じで、かなりのギャップがあるのです。
特に東海岸のマレー語はタイ南部のパタニで使われている言葉とほとんど同じで、歴史的に密接していることから今でも日常生活で使われています。また、タイ語の代名詞が入ったりするので、マレー語標準語を勉強した人にとってはなかなか聞き取ることが難しい。Aの発音がUになったり、単語の後ろがいつの間にか消えていたりします。例えば、チキンを意味するAyamがAyeになったり、8の意味のLapanがLapeになったり、ある程度の発音の法則はあります。それでもタイ語の「お前」Munがマレー語にも入ってきていたり、単語がまったく異なったりするとそこは困難を極めます。
(マレーシアで発売のトレンガヌ州とクランタン州の方言辞典)
東海岸の人たちのマレー語方言を聞いていると、感情的な表現は方言で話したほうがすっと出るのだろうなあ、と感じることがよくあります。私は毎日、マレーシア政府発表のプレスリリースを読んだり、記者会見を見たりするのですが、こちらはカチカチの標準語。教科書に出てくるマレー語そのものなのです。標準語と方言のギャップにいつも感心しているのですが、標準語というのはニュースや事実を正確に伝えるのにはとても適しているといえます。一方で、標準語は人間の感情を正確に伝えるのはなかなか難しいのではないかとも感じます。
『司馬遼太郎対話選集2 日本語の本質』(文春文庫)をたまたま読んでいたら、司馬さんが国語学者の徳川宗賢さんとの対話で方言について語っているのを見つけました。司馬さんは、「標準化された日本語には、なかなか感情がくっつきにくい」と述べており、徳川さんも、「東京弁は生々しい体臭が希薄な感じで、(司馬さんにとっては)なにか蒸留酒のような感じがなされるのではないか」と話されています。これはなかなか面白い指摘で、日頃から考えていたことに合点がいきました。
また、この本のなかでフランス語学者桑原武夫さんとの対話でも司馬さんは「標準語で話すと感情のディテールが表現できない。」「話し言葉は自分の感情のニュアンスを表すべきものなのに、標準語では論理性だけが厳しい」としています。これもなかなか鋭い指摘で、それは日本語だけでなく、どの言語にも共通したものなのだろうと思ったのです。
となると、日本語の標準語で育った私にとって、これはどういうことになるのでしょうか。日本語標準語が唯一の母語である私にとって、もしかすると標準語の表現が原因で私自身が正確に感情を表現できないのではないか。細かい感情のニュアンスを自分自身でも思うように出せないのではないのか。だから、論理性に厳しい論文を読んだり書いたりしているほうが好きなのかなとも思ったりします。
これは日本語標準語で育った私だけではなく、マレー語標準語で生まれ育った人にも同じことがもしかすると言えるのかもしれません。東海岸のマレー人と話していると、やはり方言を使っているほうが感情をぴたりと表現している。逆に標準語に切り替えて話してもらうと、彼らにとって少しぎこちなくなるようで、あまり表現ができなくなると英語の単語が出てきたりする。日本ではなかなかそれはありえませんが、やはり心の中にある感情を表現しようとすると話しことばの方言が最も適しているのでしょう。そう思うと方言で育った人たちのほうが、私としてはなんだか羨ましくなったりするのです。
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