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切なさの「チク」に心を託して

「切ない」は、あまりよろしくない感情として扱われる事が多い。

ただ、それは「切ない」の度合いが大きい場合の話であって。大き過ぎない場合は、私は「あっていい感情」だと思っている。

生きていれば、いろいろな事がある。あれば勿論、何かしらの思い出も生まれる。そして、相応に増えていく。自然な流れだ。

思い出ってやつは種類が豊富で、

・幸せだった思い出
・絶望を感じた思い出
・痛かった思い出
・ホッと安心した思い出
・恥ずかしい思い出
・辛かった思い出

ある意味「アメーバかよ」というほど分裂する(細分化される)。中でも、切ない思い出というのは特に繊細で、引き出し方次第で味が変わったりする。

心に余裕がない状態

で出してしまうと、切なさの度合いが強すぎて「グサ」と刺さるし。逆に、

心に余裕があり落ち着いた状態

で出せば、胸の痛みが「チク」で済む。自分の余裕の有無・その些細な比率の違いが大きく影響する――それが「切なさ」が繊細たる所以(ゆえん)だと思う。

だから、例えば余裕がない時に街の中で切なさが蘇るイントロが流れてきたら、イヤホンを耳に突っ込んで別の音でかき消したり。TVの特集などで見覚えのある地域の映像が流れてきたら、チャンネルを変えたり。そういった、

不意な切なさに食われない対策

は必要になってくるけど。

切なさは、ナイフでの「グサ」じゃなく、ハリの「チク」に限る。治療にも使われるように、痛気持ちいいくらいが丁度いい。そうやって、たまに少しの間なんともつかない「チク」の感覚に心を「託す(たくす)」事が、感情を枯れさせないコツなのかもしれない。

私は、生きた感情を大事に抱えながら、これからも過ごしていきたい。時計を進めていきたい。

チクに心をして。

チク、タク――と。

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エトナシ サラ
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