見出し画像

「こういう時はこうしよう」ができたら苦労しない

とある検査が終わって10日ほど経った。

その時のダメージは回復してきたけど、最近また微妙に崩れてしまっている。体がこうだと、リンクしている心も引っ張られて弱りがちで。人に対して「怒る」の気持ちが基本ないタイプだけど、自分に対してとてもイライラしている。「まだ休め」という意味なのかな。とりあえず、今は自分自身に

激おこなんとかスペシャルドリンク丸。

どうにかする気力がないから苦しいんだ

現在の状態を的確に表すと、心と体を別人が操っているかのようなちぐはぐな感覚。操作系の念能力を使うシャルナークの仕業でもなかろうに。どこかでアンテナ刺されたっけな?

まあとにかく、ちぐはぐな中で「もっとこうできたら楽なのに」と思いながら、その"できたら"ができない自分が心底嫌になっているのが現状。

こういうしたくてもできない状態は、本当に辛い。なのに、今みたいに何もできない時に限って、求めてもいないのに「こういう時はこうしよう」とかやたら助言されたりして。

正直、言われても困ります。

大抵は、その「こうしよう」をやる気力がある前提での話だから。私の場合、したくてもできない時には体力も気力もない。それほどに弱っているから辛いのであって、こうしようができる状態なら苦労しない。耳にタコどころか竜宮城ができるほど、何度も言っているけど。

だから、あくまでも私個人の願いだけど、あとは親密な関係性にあるかどうかにもよるけど、例えば「めっちゃ疲れた……」と直接こぼした時には「それほどに疲れたんだね。本当にお疲れ様だよ」といった感じで、ただただ寄り添ってほしい。

そしてできれば、

「疲れたらたくさん眠ればいいんだよ」とか「散歩して太陽を浴びるといい」とか「好きな事して遊んでまた頑張ろう」とか、

それができる前提で言わないでほしい。
その気力がある前提で言わないでほしい。
辛い最中に回復後の事は言わないでほしい。

ここでも「気力」について書いたけど、本当にそれが願いだ。

「感じ取る」の大切さ

心は目に見えない。レントゲンを撮っても、胃カメラを飲んでも、MRI検査をしても、例えば「この部分で悩んでいるぞ」などとはっきり分かる映り方はしない。

ゆえに、私は「心って見るものじゃないんだろうな」と勝手に結論づけている。心は見るだけでは分からないからこそ、

・決めつけずに
・思い込まずに
・一括りにせずに
・早とちりせずに

判断するのがいいのではないかと思っている。

だったら、これらを踏まえて判断するにはどうするか――それは"感じる"という事だ。感じると言っても、直感に頼るようなものではなくて、意味合い的には

読解力

が近い。話の中で「相手が訴えているのはどの部分なのか」や「相手がしてほしい事はなんなのか」や「相手が嫌がる事はなんなのか」を感じ取ろうとする。普段の生活の中で無意識にやっていたりするこれらは、つまり

心が感じるものである証拠

にもなるのではと個人的には思う。"感じ取る"には応用もあって、培われていけば

「こういう人がいるかもしれない」

と感じ取って、言葉を少しずつ選べるようにもなるだろう。私はそれが上手くできずに反省の毎日だから、えらそうに言えないけど。

でも「かもしれない」と感じ取るのは超重要で、忘れずにいればいろいろな場面で誤解や失礼を避けられるし、相手を思いやった言葉が育まれる――と私は信じている。

まとめ

それにしても、感じ取れる人になりたいと思ってもうずいぶん経つな。

いろいろな人の話を聞く中で「ここが本当に言いたい事なのかな」と、決めつけるのではなく感じ取って。言葉を丁寧に選びながら伝えて。それがぴったり合っていて心を掬(すく)い取れたら、素直に良かったと思うし。間違っていたら、自分の至らなさに歯がゆくなるし。その繰り返しだ。

相談でのアドバイスひとつにしても、先ほどの話のように「前を向いて何かをする気力がある場合」と「その気力がない場合」とがある事などを忘れずに話せる人でいたいと思いながら、実際できているかは分からないし。

散々語っておいてなんだけど、とんだ半熟者なのが私なんだよな。情けないやら、恥ずかしいやら。

ああ、いつか

「心は見るのではなく感じるものである」

なんて、堂々とそれを言うに足る人物になれたらいいな。ブルース・リーのパクリみたいな言葉だけど。(今気づいた)

いいなと思ったら応援しよう!

エトナシ サラ
こちらのボタンを押して「サポート(投げ銭)」をいただけると、書くチカラになります。活動を続けていくための支えになります。サポートをしてくれた方には、私から御礼のメッセージを贈らせていただいています。