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*「やられる側も悪い」の怖さ
どうなのそれ?
ある部分だけを切り取って強調して報じるという手法は、よく見かけると思います。いま話題の問題に限らず、それこそ古今東西。
見出しで一部を強調したとしても、全文を読んだ後に印象が変わらないような、いわゆる「悪い誤解を生まないもの」ならいいのですが、そうでない場合も少なくないなと個人的には感じていて。
インパクトがないと視聴者や読者を惹きつけられない厳しい事情もあるのかもしれませんんが、だからといって悪い誤解を生むと予測できる見出しにしてもいい理由にはなりません。
――と、切り取る側に対して書き始めましたが、実は今回の深掘りエッセイの肝はそこではありません。私が子供の頃からずっともやもやしていた「でもそれっていじめられる側も悪いと言うのと同じ思考なのでは?」についてのお話です。
切り取る側へ疑問を持つ事
切り取られた側の発言を批判する事
それを一緒くたにして物を言うのは、ともすれば危険な理屈に繋がってしまう気がするんですよね。いや、もう既になんとなく繋がっている気がするんですよね。
記事の中でも語る予定でいますが、これは
"性被害"が語られる時に感じる違和感
とも似ていて。「え?この話題でなんで被害者が悪い流れになるの?」のように思ってしまうんですよ――といっても、説明なしには何がなんだか分からないですよね。すみません。
では、切り取り問題がどう"いじめられる側も悪い論"に繋がるのか?どんな風に危険なのか?それをこれから言葉にしていくので、興味がある人はぜひ最後まで読んでみてください。
あくまでも、私エトナシサラがずっと思っていた事を、私の場所で、私なりの視点で執筆しているだけです。ですから、誰かや何かの代表のつもりは毛頭ありません。これが正解だと偉そうに言うつもりも、当然ありません。
その前提を理解してくれた人へ向けて。
01.「見出しだけ」で判断してはいけない
世界では、毎日何かが起こっています。
Twitterでも、特につぶやかれている単語がトレンドとして躍っていますよね。あくまでもTwitter内だけではありますが、関心がどのようなものに集中しているのかをぱっと知る事ができて、だいぶ便利なんですよね。
ただ、そこに挙がった興味をそそるニュースらしき単語をタップして見てみると、大抵は記事へのリンクが貼られたツイートだったりしませんか?そこから更にタップして読みに行き、ようやくその詳しい内容が得られるという流れだったりして。
外部リンクへ飛んで全文を確認して、真偽をある程度自分でも再確認して意見を言うならいいのですが。中には
「見出ししか見ていないんじゃ?」
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