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「自己満」と「誰か満」

好きな事を好きなように書く。

きちんとルールに従った上での話だが、こういう場所ではそんな「自己満」が許されている。コンテンツを意識して発信する人もいれば、シンプルに独り言のように発信する人もいて、続ける理由も様々。

私自身は、普段から「したくても出来ない自分に寄り添う言葉」を基本にTwitterで書いていて、誰の目を気にするわけでもないから自己満といえば自己満だと思う。

こういう風にコンテンツ化させて、以前よりは見てもらえる人の数も増えてきた。人が増えれば、当然「反応」も増えてくる。その中には質問なども多く、

「どうしたら人を救える言葉を書けますか」

偶に、そう聞かれる事がある。前後の内容を読むと、実際に自分が救われたかららしいのだが、それは正直「結果論」だ。前述のように、私は人を救おうと思って書いていない。好き勝手に書いているだけ。自由気ままにやった結果、反応として(全員ではないにしても)一部の人を救う言葉になっている――ただそれだけだ。

人を救いたいという気持ちは素敵。全然ダメではないし、寧ろ応援したくなる。ただ、

「救う」じゃなく「掬う(すくう)」が先

ではないだろうかとも思う。

相手が望んでいるのが何かを、丁寧に慎重にしつこくなく見極めて、気持ちを「掬いとる」事。ここを飛ばして自分の言葉だけで相手の心を変えて救ってやるぜと思っても、逆に

閉店ガラガラ

になりかねない。それこそワオな事態になる。

救いたいなら先に掬うべきだし、掬うためには相手と目線の高さを合わせるべきだが、そもそも「救うというのが烏滸がましいというか何様だと思われやすい」から、目線の高さが合いにくい。合わせやすくするには、烏滸がましいその意識を捨てる事。

つまり「人を救おうとしない事」が、結果的に「人を救う事」に繋がってくるわけだ。ある意味で、とても皮肉な話だな。

自分が書いているのは、ただただ言葉が大好きという理由。だから、誰かを救いたいなんてさらさら思わないが、この言葉で腹いっぱいにしたいとは思っている。腹ぱんぱんでもう十分――となるくらいには。

何年も何年も続けていると「命を捨てる準備中に目に入ってきてもう少し生きようと思いました」という人もいて。「言葉が毎日の支えになっています」という人もいて。「ずっと変わらずいるのでほっとします」という人もいて。

自分が満足するためでしかなかった「自己満」が、密かな理想の通り誰かを腹いっぱい満足させる「誰か満」に少しずつでもなれているのなら、それでいい。

その誰かがあなたなら、尚更いい。


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エトナシ サラ
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