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無理に笑顔を我慢せんでも

暗く沈んだ人がいたとして。

それに「寄り添いたい」と思った場合。

一緒の気持ちになるのも、間違いとは言えない寄り添いの形だと思う。事情を知って「そうなんだね」と。「それはしんどいよね」と。うなずきながら感情に触れてもらうと、受け止めてくれているんだなと嬉しくなったりするし。

と同時に。

いつも通りでいるのも、間違いとは言えない寄り添いの形だと思う。普段と違う状態で落ち着かない中で、普段と同じでいる事が「うんうん。大丈夫だ。『いつも』はちゃんとここにある」という安心に繋がったりもするし。

この2つは「~よりこっち」と比べるものじゃないし。ましてや「~はおかしい」と争うものじゃない。両方存在していていいし、どちらも1つの寄り添い方。

だから「と同時に」なわけだ。

勿論、大前提として「寄り添っているんだから相手を中心として限度を見極める」はある。ここを忘れると

・沈み過ぎて相手がフォローするハメに
・はしゃぎ過ぎて気分を悪くさせる

こうなりかねないから、そこは注意したいところ。「相手中心」が抜け落ちた「自分本位」にならないようにしたい。ここは、強く強く自戒を込めて。

例えを「人」としたけど、これを「世界」にしても同じだと思う。何か規模の大きなニュースが流れると、笑顔になるのがいけない気がしたり、楽しい事を楽しむのが罪のような気がしたり。

でも、ええんよ。

当事者の前でワーキャー騒ぐわけじゃないなら、いつも通り楽しんで、笑っていいと私は思うし。事実、今もこうして好きな言葉を好きに書いている。

「怪我が治るのは怪我していない周囲が元気だから」

という、例えはともかくシンプルな理屈で。それぞれがそれぞれの考え方で、それぞれの支え方で、それぞれの過ごし方をする――ただそれだけ。

だから、ええんよ。

無理に笑顔を我慢せんでも。

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エトナシ サラ
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