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公園のベンチでの10分間

昼休みになると、僕――城戸きどイツカは牛丼チェーン店で手早く食事を済ませ、川沿いの公園へ向かうのが日課だ。植栽が豊かで、老若男女が憩うこの公園は、僕にとって心のオアシスだ。決まったベンチに腰を下ろし、今日は新刊のファンタジーライトノベルを取り出す。

物語は、中世ヨーロッパのような世界に迷い込んだ少女が、数々の苦難に立ち向かうというもの。ページをめくる手が止まらない。少女が剣を手に襲撃者たちと対峙する場面に差し掛かった。その描写があまりにも生々しく、僕は思わず立ち上がり、右手を振り上げて剣を振る動きを真似していた。

「なるほど、こんな具合か……」

入り込んでしまうと、つい身体が動いてしまうのは昔からの癖だ。動きを再現することで、作者の意図や物語の深みがより理解できる。満足して再び座ろうとしたとき、隣のベンチに人影があることに気づいた。そこには長い髪の毛を左手で弄りながら、小説を読んでいる女性がいた。

(見られてたのか……!)

一気に顔が熱くなる。思わず頭を下げて心の中で謝る。

(すみませんでした……)

恥ずかしさで手元の本に視線を固定するが、気になって横目でちらりと彼女を見てしまう。彼女は微笑みながら、同じように小説に目を落としていた。

(ちょっと見たけど、女の人だったな……)

どのくらい見られていたのかと考えると、赤面せずにはいられない。


翌日、昨日の続きが気になり、いつものベンチで本を開く。すると、隣から気配を感じた。横目でそっと見ると、昨日の女性が白いワンピースを着て座っている。特徴的な夜空と星のブックカバーが目に入る。

(また会った……偶然かな?)

昨日の出来事もあって緊張し、本に集中しようとするが、意識してしまってページが進まない。気づけば彼女はいなくなっていた。

次の日も、その次の日も、彼女は現れた。清楚なブラウスにチェック柄のフレアスカート、ピンクのカーディガンにフォーマルなタイトスカート。服装は日替わりだが、いつも同じブックカバーを手にしている。

こうも続くと、さすがに意識せざるを得ない。取り立てて美人というわけではないが、しなやかな肢体と穏やかな雰囲気が妙に目を惹く。僕は背が高い割に気が小さく、いつもワイシャツ姿の平凡な会社員だ。声をかける勇気なんてない。

彼女が立ち去るとき、公園の遊歩道の柱に設置された時計を見ると、いつも10分間だけ隣にいることに気づいた。

(10分だけって、何か待ってるのかな? 電車? それとも近くの店の予約時間までの暇つぶし?)

疑問は尽きないが、聞くこともできず、もどかしい日々が続いた。


ある日、物語が佳境に入り、囚われた少女のもとへ既出のキャラクターたちが向かう熱い展開に、思わず「このキャラが出るなんてな〜……」と呟いてしまった。ハッとして隣を見ると、彼女と目が合った。彼女はメモ帳を片手に持ち、微笑んでいる。

(……気まずい)

赤面して苦笑いしつつ、本に視線を戻す。(あの人、笑ってたな。僕、そんなに変なことしたかな?)

去り際の彼女は、左手内側につけた腕時計の文字盤を右手の人差し指で撫でて時刻を確認し、本を閉じてその淵を愛おしそうに指先でなぞった。その仕草がなんだか艶やかで、心がざわついた。

(この本を読み終わったら、きっと声をかけてみよう。そう、明日には……)

決意を胸に、翌日を迎えた。

彼女はハイウエストの黒のロングスカートにTシャツ、淡い青のストールを肩に羽織って現れた。隣でメモ帳に何かを書いている。

(彼女が立ち去る10分前に読み終えて、声をかけよう)

そう心に決め、本に集中した。物語の最後は、冒険の後の世界と少女の存在のズレ、そして行いの結果が描かれていて、少し切ない気持ちになった。

ふと目の前の時計を見ると、すでに10分が過ぎている。隣を見ると、彼女の姿はなかった。

(また話しかけられなかった……)

落胆しつつも、彼女の座っていた場所に目をやると、あの星空のブックカバーをした小説が置かれていることに気づいた。

(忘れ物だ……!)

手に取ると、彼女の温もりがまだ残っているような気がした。

(明日会ったら渡そう。これなら自然に話しかけられる)

期待に胸を膨らませ、その日は本を大切に持ち帰った。


しかし、翌日もその次の日も、彼女は現れなかった。

(何か都合があったのかな。次こそは……)

そう思いながらも、日々は過ぎていく。秋風が肌寒く感じるようになり、彼女の不在が孤独を際立たせた。

堪えきれなくなり、僕は彼女の忘れ物である本を開いてみることにした。新品同様で、ページには折り目一つない。ページをめくっていくと、僕が読んでいたのと同じ江戸山月見先生の作品だとわかった。

(彼女も江戸山月見えどやま つきみのファンだったのか……)

親近感を抱きつつ、最後のページをめくると、一枚のメモが挟まっていた。

「出会えて良かった。いつも隣に座るあなたの笑顔が勇気をくれました。次もあなたに笑って欲しい。」

その文字を読んだ瞬間、胸が締め付けられる思いがした。

(これがあの日、彼女が書いていたメモか……もっと早くに声をかけていれば……)

後悔が押し寄せた。しかし、「次もあなたに笑って欲しい」とはどういう意味なのだろう。

(今日だって来てくれなかったじゃないか……)

不安になり、スマホで近隣の事故のニュースを検索した。幸い、若い女性の事故情報は見当たらなかったが、胸のもやもやは晴れない。


それから約一年が過ぎた。

僕は相変わらず公園のベンチで読書を続けていた。今日は江戸山月見えどやま つきみ先生の新刊だ。あの日から、彼女の忘れ物である本は僕の相棒となっていた。

物語に没頭し、ついに最終ページを読み終えた。癖になった時計で10分間を確認する。彼女が立ち去る時間だ。

(もう一年も経つのか……)

ふと、巻末の後書きに目を通した。その中の一文に、息を呑む。

「今作は、公園のベンチで10分間だけ一緒に過ごした方に勇気をいただき、書き始めました。その方の目だけでなく、全身を使って物語に没頭する姿に救われました。楽しんでいただければ幸いです。」

(まさか……彼女が江戸山月見えどやま つきみ先生だったのか?)

驚きと同時に、あの日々が鮮明に蘇る。

「僕も、出会えて良かったよ……」

静かに呟き、本をそっと閉じる。その時、秋風が吹き、落ち葉がカサカサと音を立てて足元を通り過ぎた。その音が、まるで誰かが近づく足音のように聞こえた。

振り返ると、遠くの遊歩道に人影が見えた。長い髪が風になびき、こちらを見ているような気がする。

(……彼女、なのか?)

胸が高鳴る。しかし、次の瞬間、風に舞う落ち葉が視界を遮り、人影は消えていた。

それでも、不思議と心は温かかった。またどこかで彼女に会える、そんな予感がしたからだ。

風に乗って運ばれてくる落ち葉の音が、まるで彼女の足音のように響いてくる中、僕はもう一度、本を抱きしめた。


〜終わり〜


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