みみ…み
中学生の頃、巳神 梅波は幼い頃から遊んできた近所のお兄さん、病伏 杏真に恋をしていた。杏真は二つ年上で、スラリと背が高く、誰とでも分け隔てなく接する社交性の持ち主だった。どんな相手にも平等に笑顔を向ける彼は、周囲から見ても「優しくて器用な人」というイメージそのもの。実際、興味を持ったものは何でもすぐに体得してしまう天才肌で、女性に対しても「みんなを幸せにしたい」とばかりに、気になった子には積極的にアプローチしていた。
その中で梅波は、「私だけは特別でありたい」という小さな切望を抱いていた。幼い頃から変わり者扱いされ、周囲に溶け込めずにいた自分を、杏真は当たり前のように受け入れてくれたからだ。誰かの手を煩わせるような存在だった梅波が、杏真の隣に立つときだけは生き生きと輝けるような気がした。二人で過ごす時間は、梅波にとっていちばん尊い瞬間だった。
そんな彼女には、祖母から仕込まれた古流柔術の心得がある。華奢に見えて、人より身体バランスに優れた力を持っていた。中学生のある夜、梅波の自室で杏真はしっとりと寄り添ってきた。
「確かに 『巳神』って、ちょっと聞くと蛇みたいで怖いイメージあるかもな。」
そう言いながら、杏真は梅波を抱き寄せ、熱い吐息をもらしながら続ける。
「でも蛇って、古来は幸福や再生、永遠の象徴でもあるんだ。脱皮を繰り返すだろ? 前向きで、挑戦的な意味合いが強いんだよ。」
「…ほ、本当に? 私…この苗字が嫌で仕方なかったのに…」
ベッドの上で身体を重ねながら、梅波は息を乱しつつも杏真の瞳をしっかり見つめ返す。蛇を嫌いだと思っていた自分と、新しい意味を教えてくれる杏真。その穏やかな声に耳を傾けているうちに、言葉がどこまでも溢れてきそうだった。
「梅波は本当はすごい才能を持ってるよ。作ってみろよ、曲。おまえの『巳』を平仮名にしたてさ…それを並べて『みみみ』とかどうだ? ちょっと可愛いじゃん。」
「み、み…み? ああ、ほんとだ。蛇が並んで這ってるみたいで…面白いかも…」
そうして生まれた最初の曲が「みみ…み」だった。梅波にとっては自分の名前を愛せるきっかけとなり、杏真にとっては「なんでも形にしちゃう面白い子」という認識をさらに強める出来事だった。
そんな二人は、中学時代から秘密めいた関係を続けていたが、杏真が高校へ進んだ頃、彼の親の仕事の都合で東京へ引っ越す話が急に舞い込む。天才肌で行動力のある杏真は、人望もあって多くの仲間たちに囲まれながら新天地へ旅立つことになった。梅波は「唯一の恋人」でいたいと願っていたが、彼には他にも何人かの女性友達がいるようで、出発の日も大勢が見送りに押し寄せていた。人混みを掻き分けるようにしてやっと近づいた梅波が、「ねえ、私、離れても絶対にがんばるから…って、痛い、グエェ…」と声を上げるが、彼女は他の誰かに押しのけられる。
「ははっ、ヴァイパーっ!俺…ずっと見てるよっ!」
杏真は笑顔でそう叫んでくれたが、その周囲には既に幾人もの女性の手が伸びていて、梅波はほんの数秒しか目を合わせられなかった。結局、彼が旅立つ新幹線の姿をホームで見送ったのは、まばらになった人波の最後尾からだった。
杏真がいなくなった田舎の町で、高校に進んだ梅波は、どことなく精彩を欠く日々を送るようになる。祖母の古流柔術の稽古を淡々とこなしながら、授業が終わると家に閉じこもってギターをつま弾く。ノートには尽きぬ想いを走り書きし、「離れていても想いは届く」と信じてはみるが、杏真からの連絡は多くはない。そんな不安を抱えつつも、新しい曲の断片を音にしていくのが、今の彼女の唯一の拠り所だった。
そんな梅波の前に突然現れたのが、背広の肩がヨレていてフケが散らばる、胡散臭さい中年男だった。彼の名は恥元 徹。大手芸能事務所の地方出張所へ左遷されてきた元・やり手マネージャーだという。放課後の校門を出たばかりの梅波に声をかけ、「あんた、ネットで『ヴァイパー』ってアバター名で歌ってる子だろ? 一度、生で聴きたいんだ。」としつこく迫る。
「…警察呼びますよ。それとも、私に捻られたいんですか?」
胡散臭さ全開の男に対し、梅波の警戒心はMAXである。彼女の豊満なバストが制服越しにもはっきりわかるほど張り詰め、「私は 『杏真』 のものだから、変な真似したら容赦なく四肢をもぎますよっ!」と凄む。
「ま、待って! 俺はただ、おまえの歌を聴きたいだけなんだって!」
恥元が手を伸ばしてきた瞬間、梅波は素早く体を入れ替えて背後を取り、彼の腕を痛い角度に捻り上げた。
「うぎゃぁあ、いっ、痛い痛いっ!」
想ったよりも情け無い叫びに哀れんで、動きを止める梅波。彼が本当に下心だけの人物かと思いきや、どうやらそれだけでもないらしい。男の目にはビジネスの色がある。梅波は怪訝そうな顔でギターケースを背から下ろし、「ハア、しゃ〜なしだよ。」と決心して弦を爪弾く。
そのとき口ずさんだのは、最初に作った曲「みみ…み」だった。梅波自身、巳神という苗字を嫌っていたが、杏真が教えてくれた“蛇”という存在の奥深い意味と重ね合わせて生まれた歌。そのアコースティックな響きと瑞々しい声に、恥元は電撃が走ったような衝撃を受ける。
「間違いない…。ネットでバズってた 『ヴァイパー』、やっぱりアンタだったか…」
彼は痛む腕をさすりながら、改めて梅波に対し提案する。「俺と組もう。君を、もっと大きいステージに立たせてやりたいんだよ。これから絶対に名が売れる 『太陽』にしてやるよ。」と。
「太陽、ねぇ…」
梅波は内心で杏真の顔を思い浮かべる。(私にそんな価値があるのかな。でも、太陽だったら梅波も毎日みてくれそう…)と、ほんの少しだけ前向きに考え始める。
高校生としての平凡な日常をこなしつつ、梅波は恥元の指示でエステや美容院、化粧レッスンに足を運ぶようになった。元来のマイペースさは相変わらずだが、腰まで伸び放題だった髪を手入れし、服装や身だしなみに気を遣い始めると、見違えるように雰囲気が洗練されていく。学校でも「巳神、最近キレイになったよね。話を聞いてなさそうなのは、相変わらずだけど…」と噂されるようになる。恥元は中年男の胡散臭い笑みを浮かべながら「こいつは将来化けるぜ!」と内心舌なめずりをしているが、梅波はそんな大人の思惑など知らず、「杏真に振り向いてもらいたい」という純粋な想いのために必死で努力を積み重ねた。
そうした積み重ねは、梅波の創作にもさらなる変化をもたらす。杏真との思い出をノートに書き留め、切ない恋心を歌詞にしてはギターを奏でる夜が続く。離れてしまった人への想いを形にすることで、自分自身の迷いや空虚感に折り合いをつけようとしていたのだ。
そして誕生したのが、新曲「側にいるだけでColorful World」。
これは、彼女にとって初めて“愛”をまっすぐに表現した曲であり、相手の存在が世界を色鮮やかに変えていく…そんな想いをストレートに込めたラブソングだった。作業に没頭していた深夜、完成したメロディを録音して聞き返すたびに、梅波は自然と涙がこぼれる。「いつか、これを杏真に聴かせたい。どんな表情をするんだろう。」と、その気持ちだけが彼女を支えている。
恥元は早速「側にいるだけでColorful World」をネットで公開する計画を練り始めた。スタジオを押さえ、そこに梅波を呼び寄せて仮レコーディングを行い、撮影した映像を編集し、アバター「ヴァイパー」の新作MVとしてアップしようというのだ。梅波も多少緊張しながらも、マイクの前に立つ。準備万端、あとは歌い上げるだけ——そのとき、ふと思いついたように彼女は恥元に声をかける。
「ねえ、恥元さん。今の私を、スマホで撮って。自撮りじゃ伝わんないトコがあるから。」
「はあ? めんどくせえな。ま、仕方ないか……」
苦々しげにスマホを構えながら、彼は内心ほくそ笑む。(この何日かで、俺が借金してまで磨き上げた女だ。こいつにはしっかり稼がせてもらうぜ。)と。画面に映る梅波は、以前とは比べものにならないほど姿勢も表情も洗練されており、真っ直ぐこちらを見つめてくる瞳が強く輝いている。だが、その視線の先には常に「杏真」という名の人物の影があるのだろう。
これは、巳神 梅波が自分を“蛇”から“太陽”へと変えるために歩み始めた物語。その光はきっと、かつてともに過ごした杏真の耳にも届くに違いない。…あとは彼が梅波を裏切って、釣鐘の中で蒸し焼きにならない事を祈るばかりだ。