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映画『ダンサー・イン・ザ・ダーク』

1.エンドロール、濁る想い。

“鬱映画の代表”とも云われる本作。ミュージカルを愛してやまない主人公。視力を徐々に失っていきながらも、女手ひとつで息子を育てながら工場で働いている。対照的に描かれるポップなミュージカルシーン。だがあくまで、うまくいっているのは全て彼女の妄想の中。
彼女を襲う悲劇はあたりにも冷たい。
作中で彼女は言った。“最後から2番目の唄が始まると 映画館を出るの そうすれば永遠に 映画は終わらない”
決して待ってはくれない107歩。
映画終盤、執行の瞬間。彼女は最後から2番目の曲を歌う。
その瞬間はあまりにも突然で、乱雑にすら見えた。
エンドロールを迎えられた私たちも、人生でいつ2番目の曲が始まっているかなんて、きっと誰も分かり得ないでしょう。いいや、ずっと最後から2番目の曲を歌っていれば、その日など永遠に来ないのです。

皆様は、自分の人生の最期を考えたことがあるだろうか。私はなんにでも“運命”を感じるタチだが、誰にでも起こり得る“死”に対し、予期せぬものは受け入れられない!と抗っている。だから、必ず来るその時にも、理想がある。“終わりを自分で決めてしまえることこそ、至上で幸福なのではないだろうか。”そう考えてしまう。

さぁ、皆様もう1つお手土産に。主人公の次に登場シーンが多いのは、主人公の親友キャシー。彼女の大切な息子が実はあまり登場しないこの映画。何故なのか。
もし、息子が母親からの愛を、意図を、しっかり理解して受け止めていられなかったら…。
主人公セルマは息子の目の手術のために、息子に誕生日プレゼントも与えてやれず貯金に充てている。普段も仕事で構ってすらもらえない。そんな12歳の息子は、自分の目の事情を知らない。まだ少し幼い息子には、何も言わずにその愛情は本当に真っ直ぐ伝わっていたのか。ひょっとすると、息子からすると“エゴ” “僕に興味がない” そんな風に思った瞬間すらあったのではないか。
本当にそうなら、なんて報われない映画なんだ。
“息子の目の手術が成功した”ではあまりにも釣り合いが取れない。


2.ドグマ95「純潔の誓い」

映画を観た後に、“これはドキュメンタリー!?いやまさか!じゃあ元の事件はなんだ!?”という感情に駆られるが、言わずもがなフィクション。ではなぜ、こんなにもリアルでこの映画に入り込んでしまうのか。

純潔の誓い


皆様はドグマ95「純潔の誓い」をご存知だろうか。
1995年、デンマークの4人の映画監督、ラース・フォン・トリアーらによって始められた映画運動である。ドグマ95には「純潔の誓い」と呼ばれる、映画を製作する上で10個の重要なルールがある。

本質としては、過度な特殊効果やテクノロジーに依存せず、物語や役者の演技、映画本来の伝統を立ち返ることにあった。
映画というフィクションの中に、どれだけリアリティを追求できるのか。
ダンサー・イン・ザ・ダークも完璧にではないが、この項目に当てはまるものが多い。
以上のものから、フィクションなのだが、ノンフィクションに思えてしまうほどリアルに映り、私たちはまんまと迷い込んでしまったのだ。
私がこれを知ったとき、“やられた…”という感情になったとともに、映画の旨みを前より少し味わえた気がした。
ドグマ95の純潔の誓いというものは、映画界での革命なのではないだろうか。
作品を作る上での、作り方や表現法やジャンルに囚われない“自由”と、相反する、矛盾し約束された10の“束縛”。
作品というものは、どこまで果てしないんだろう。


3.革命

ダンサー・イン・ザ・ダークは、ハッキリ好みが分かれる映画ではないだろうか。私はきっと人には勧め難い映画と言ってしまう。でも間違いなく、私の人生において大きな映画だ。
主人公は、日常から聴こえてくる音がキッカケで、ミュージカルの妄想へ出かけるわけだが、皆様も似た経験があるのではないだろうか。何か眺めているとき、あれに似てるな〜とか、何かを聞いたとき、懐かしく思ったりとか。そんな妙なリアルさが、私たちをこの渦へと掻っ攫ってく。
彼女はたとえ暗闇の中でも、大好きなミュージカルの最後から2番目の曲を歌い続けるのだろう。


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