坂本龍一展のおすすめ
坂本龍一展のおすすめを書いておきたい。
まずこの展覧会は現在開催中のものである。そのため、展覧会にネタバレがあるかどうかわからないが、初めて見たときの驚きを大切にしたい方は、途中で読むのを止めてもよい。
正式名称は「坂本龍一 音を視る 時を聴く」。場所は東京都現代美術館。期間は、昨年12月21日に開始、今年2025年3月30日まで。
とはいっても、この展覧会は早く見るべきである。私は昨年の初日の翌日に行った。その時でも多くの人が入っていたが、今に比べるとだいぶまし。今は、当日券の購入に30分待ち、会場に入場するまでに60分待ちだそうである。
2月11日から様々な条件が変更された。まず日時指定のオンラインチケットが販売されることになった。当初は、ほぼ全ての作品が写真撮影OK、動画も1分以内であればOKだった。しかし、現在はいくつかの展示のみが撮影OKに変更された。また、混雑していたルートも変更された。夜間開館も増えた。
本展は、これから混雑する一方と思われる。また、後述するように、同じ構成の展覧会が再度開かれるとは思わないので、ぜひ今のうちに見にいってほしい。
展示内容
まず展示内容を説明する。展示は大まかに2フロアに広がる。一階の展示を見た後に地下を巡る。おおよそ展示は、新しい作品から古い作品に遡る感じで並んでいる。そのため、私が今回特に見てほしい、1996年の展示は、このルートの最後に当たる。時間切れにならないように、まずは最後まで見ていくのがよいのではと思う。地下から一階に戻って、再び一階を見回ることができるので、繰り返し見るのがよいと思う。といっても、一つ一つの作品が激混で、次の展示へと抜けていくだけで大変なので、言うほど簡単ではない。
実は私はこの展覧会に出ている作品の関係者の一人である。1996年の「MPI×IPM」という作品を、1996年12月の現場でスタッフとして働いていた。1999年の「opera LIFE」でも、スタッフとして参加していた。その意味では、「MPI×IPM」と「opera LIFE」について深く述べるのがよいと思うが、まずは展示全体をざっと述べる。
入口から入ってすぐに目にするのが「TIME TIME」である。昨年2024年4月に、国立新劇場で日本初演があった。高谷史郎、舞踏家の田中泯、笙の宮田まゆみ。最初のアイデアが坂本龍一である。
実はこの作品は2021年6月に、オランダで世界初演をしている。なぜこれを覚えているかというと、私はそのときパリにいたからだ。そのときはまだコロナ禍で移動が制限されていたが、いますぐ移動すれば見に行けるかもと思ったが、行かなかった。そのときはまだ坂本さんが亡くなってしまうとは思っていなかったのだった。
TIMEは、劇場でのシアターピースだが、その映像をもとに会場で再現版が作品化されている。ちょうどopera LIFEとLIFE作品の対応関係のようだが、記録映像をもとにしており、比較的ストレートな再現になっている。
入って右に行くと、「water state 1」がある。これは山口のYCAMで展示された作品である。会場に入ると正方形の水面がある。ぱっと見は黒い正方形が置かれているように見えるが、そこに上から水が落ちてくる。上を見ると、ソレノイドによって水の噴出が制御されているのが見える。そこから一粒ずつ水が落ちてくる。ソレノイドバルブが18×18の、計324個がおさまっている。これ作るの大変だっただろうなと思う。18×18のマトリックスから水滴が落ちてくるパターンはセルラーオートマトンによって制御されていて、見ても簡単にはルールが分からない、複雑な模様を描いている。
もう一つのフェーズとしては、水面下にスピーカーが配置されており、そのスピーカーの振動で水面に波紋が生じるモードがある。この波紋は科学実験でよく見るし、波紋そのものを作品化した事例も多数存在する。だが、この作品の波紋は思ったより複雑だ。おそらく、水面下にいくつものスピーカーが配置されていて、特定のパターンを描くようにスピーカーの振動が制御されているのではないか。
音も鳴っている。視覚的な喜びが強い作品なので、音について意識が向かないが、よく考えたら音楽家の作品なのだと耳を向ける。今回の会場では、作品の周囲に自然の石が配置されている。これは、もの派の作家「李禹煥」からの影響ではないか。
この「water state 1」は、高谷史郎と坂本龍一のコラボレーションにおいては比較的初期の作品だが、最良の成果の一つだったのではないかと思う。何よりも、水の表面に起こる変化の美しさを主題とした作品という意味で、その後の作品展開に通じるものがあるし、その表現の微細さ、音の繊細さにおいて、極立って美しく感じる。
先ほどのTIMEでも、実はステージ下には水面がはりめぐらされていて、その上にピアノが配置されている。坂本さんは、水面の上にピアノを配置するのを特に喜んでいて、「もう水の上でしかピアノを弾かない」と語っていたというエピソードが残っている。
次の部屋、そこでは東日本大震災で被災したピアノを使った作品「IS YOUR TIME」がある。ピアノ上方には正方形のスクリーンがあり、空が映る。上空から降る雪が捉えられている。スクリーンには、スキャナーのように定期的に白い線が移動し、そのことによってスクリーンが単なる空の再現ではないことを示している。この展示でも、ピアノの下には水面がはりめぐらされている。モチーフの繰り返しである。
もともとこの展示が発表されたのは、2017年のNTT ICCである。その際は、坂本のアルバム「async」が発売された直後だった。彼は設置音楽というテーマで『async』の楽曲を元に展開したインスタレーション作品を作っている。そのため、その際にはasyncの楽曲と共に展示されていたが、ここでは音は最小限に抑えられている。世界中の地震のデータを元に、ピアノがぽつんぽつんと演奏される作品になっている。地球の脈動を元に被災したピアノが音を奏でるという、当初のコンセプトに忠実な作品へとバージョンアップしたことになる。
廊下を歩く最中に、中庭に中谷芙二子による霧の彫刻の作品が展開されているのが目に入る。当初は地下から中庭に出られるようになっていたが、今は別の入り口からぐるっと回って入るように変更されている。ちなみに中庭は普段は出られない。今回は特別に中庭も展示場所にしているのだろう。
今回は「LIFE–WELL TOKYO」という名前で、中谷芙二子、高谷史郎、坂本龍一のスペシャルコラボレーションという形で展示している。
中谷芙二子が日本のメディアアートに果たした重要性を語り始めると長くなるので簡潔にするが、まず霧の彫刻は、中谷芙二子がライフワークとして作り続けている作品である。最初は、1970年の大阪万博。E.A.T.が担当したペプシパビリオンである。
今回は単なる霧の彫刻ではなく、高谷と坂本とのコラボレーションとなっている。高谷は、上部にミラーを設置し、太陽光を反射させ、霧の中に光の道を作るようにしている。日中、ミラーに太陽が当たっているときにしか見えない。音は坂本である。しかし、音はあまり知覚されなかった。既存の楽曲を流していたのだろうか。
この霧の彫刻の作品は映えスポットとなっていて、多くの人が自撮りを楽しんでいた。霧の彫刻だけならどこでもあると思ったが、よく考えたら都内の美術館で霧の彫刻を展示するのは、最近はあまりなかったのかもしれない。
続いて、カールステン・ニコライがこの展覧会のために作った映像が2つ上映されている。この2つは本展覧会の白眉である。
そもそもカールステン・ニコライは、坂本の盟友だった。坂本が、癌を宣告されたとき、まず一番最初に相談したのがカールステンだったという。癌を一度は克服し、まだ完全復活とはいかなかった状況で、イニャリトゥの映画『レヴェナント』の音楽を引き受けたが、それを共に制作を進めたのもカールステンだった。
今回彼は、アルバム「12」の2つの楽曲に映像をつけた。一つは、ひたすらに抽象的な水の動きの映像「PHOSPHENES」。水の水蒸気の動きは揺らゆらと動いて綺麗だが、それに横から光を当て、揺らめく水煙を映像化した。ひたすらに美しい。
もう一つは、博物館を舐めるように撮った映像「ENDO EXO」。ドイツの博物館で、剥製になった様々な動物をカメラが克明に映す。フォーカスは、動物から動物へと自由に移動する。映像の後半、剥製から骨にシフトする。各種の動物の骨が克明に描かれる。映像の意味の解釈は難しいが、世界に多くの種類の動物がいることというよりも、そのような多様な動物がいることを記録し、保管したいと考える人間、動物学者の生態がテーマになっているように思う。
地下に移動する。
アピチャッポン・ウィーラセタクンの作品がある。この作品だけ浮いている感じがする。SNS上の感想でも、これだけ少し違うとコメントしている人がいた。よく分かる。アピチャッポン・ウィーラセタクンの映像作品はどれも美しく、心に染みるストーリーが多い。しかし、この作品は眠りをテーマとしており、あまり明白なストーリーはない。「async」を元に展開された作品の一つであり、asyncの楽曲が再生される。
「async」の音楽を流しつつ、巨大なスクリーンで映像を流す作品「async–immersion tokyo」がある。2023年のAmbient Kyotoで、高谷史郎と坂本のコラボレーションで展示されていた作品のバージョンアップ版である。使われなくなった印刷工場の地下を利用してライブイベントを行っていたが、音響が大変良かった。
「Zakkubalan」による24個のスマホやiPadなどのスクリーンを部屋の中に配置した作品「async–volume」。画面は、坂本のスタジオの内部や彼の住居の庭の様子など、比較的プライベートな映像をとらえている。音も自然音だろう。もともとは、ワタリウムで展示されていた。
ちなみに、あまりここを正確に説明している解説を見ないので書いておくと、この「Zakkubalan」は、坂本の息子である空 音央(Neo Sora)によるアーティストユニットである。つまり、彼が坂本のスタジオや庭を映像にしているのは、ある意味日常の記録なのである。
『LIFE – fluid, invisible, inaudible』という作品。部屋の中に3×3の9個の水槽のようなものが空中に浮んでおり、それに対して上からプロジェクターで映像が投影されている。揺らゆらとうごめく水槽の水面に、上方からプロジェクターで映像が投映され、それが観客の頭の上から降り注ぐように見える。それが故にインスタ映えの舞台のように扱われている。
だが、実を言うとこの作品の主眼は映像の中身にある。この「LIFE」というのは、1999年の「opera LIFE」から来ている。朝日新聞創刊120周年記念事業だったため、予算が豊富だった。劇中で使用した映像は、ほとんどが再利用可能なものとして許諾を得ていた。その許諾はいまも生きている。しかし、そのような映像がほとんど活用できていないとのことだった。それを知った当時のYCAMのキュレーターだった阿部一直が、YCAMでインスタレーション作品にしませんかと提案し、実現した作品なのである。
といっても、LIFEの映像だけが流れるわけではない。アルゴリズムで生成された図形も表示されるし、ダムタイプの作品のように地図が描かれることもある。映像はリピート再生ではなく、コンピュータ制御されたランダムな再生である。何時間そこにいれば全ての映像が見られるのかは誰にも分からない。
資料展示も行われている。60~70年代の雑誌に取り上げられていた時代。opera LIFEの制作途中の資料。その後のアクティビストのように活動し始めた時代。そのような資料が展示されていた。
最後の展示として、岩井俊雄による「Music Plays Images × Images Play Music」、略して「MPI×IPM」の再現展示がある。この作品については、語ることがありすぎる。一旦はここでは簡単に説明する。
1996年12月に水戸芸術館で初演した。1997年にアルス・エレクトロニカ賞グランプリ(ゴールデンニカ賞)を受賞。1997年9月、アルス・エレクトロニカ・フェスティバルの一環として、現地にてイベントを行った。1998年、恵比寿ガーデンホールにて、再度イベント開催した。私はその全てを、関係者として関わっている。
もう一つ、ルートから外れるので見逃しがちだが、真鍋大度による電波を可視化した作品「センシング・ストリームズ 2024―不可視、不可聴(MOT version)」がある。この作品は札幌芸術祭での展示が最初だったと思う。電波は、私たちの生活の中を満たしており、様々な波長の電波が異なる役割を持って使われている。携帯電話、無線LAN、ラジオ、電子レンジなどなどいろいろある。ラジオ局では、いまだに波長と局が対応している。81.3がどのラジオ局か、みんなすぐに答えることができるだろう。
電波は目に見えない。それを目に見えるようにしようという作品なのだと思う。だが、こういうテーマの作品は、実は難しい。何が難しいかというと、どこにも正解がないということである。
そもそも一般にアート作品というものは、どこにも正解がない。正確に言えば、美しさが正解の基準になる。その美しさはアーティストの中にあるものであり、アーティストが美しいと思うかどうかが正解の基準となる。
電波の状況を可視化する作品を作るといったとき、正解の所在が問題となる。たとえば、電波に関わる工事を行うために、現時点の電波利用を可視化するアプリケーションを作るのであれば、工事を円滑に行うという目的に適うかどうかが正解の基準となる。いわゆる客観的な可視化となる。しかし、可視化を作品化するといったとき、この2つの正解の所在の違いが課題となる。どちらの正解を優先すればいいのか、誰にも分からないのである。
真鍋大度と坂本がコラボレーションした本作品は、札幌での展示は見ていないが、何度か展示され、目にしている。NTT ICC、Sony Park、都現美での展示。ICCとSony Parkはインタラクティビティがあるという点で今回の展示とは異なる。周波数を選ぶと、それぞれで可視化のアルゴリズムが違い、見た目が異なる。都現美での展示は、むしろスペクトラム利用の可視化のようになっていて、性格が変わっていたようにも見える。
恐らく、この展覧会を最後まで見たら、軽く3~4時間は経っていると思う。最初の混雑してない状況でもそうなのだから、現時点の混んでいる状況でどのくらいかかるかは分からない。
比較
坂本龍一個人をテーマとした展覧会では、今まででもっとも大規模だったものではないか。といっても、私はソウル、北京、成都市での展覧会は見ていないが、これらも大規模なものだったと聞いている。
坂本が亡くなられたのは2023年3月だが、2023年12月に「坂本龍一トリビュート展」がNTT ICCが行われている。ここでは、畠中実と真鍋大度の2人が共同キュレーターを務めていた。会場の前半を真鍋が担当し、暗い部屋にプロジェクターで映像を見せる。後半は明るい部屋で、壁には資料展示。坂本龍一の軌跡、メディアアーティストとのコラボレーション、NTT ICCの歴史との関係が展示されていた。真ん中にあるピアノは毛利悠子の作品となっており、坂本の自動演奏が流れていた。アルバム「12」の表紙として使われていた李禹煥の絵の実物が展示されていた。
私はこの展覧会のレセプションに、行こうかどうか迷っていたのを覚えている。しかし、同年の秋に、京都で高谷さんにお会いし、そこで久しぶりにお話をして、にこやかに「レセプション来てくださいよー」と仰られ、よしと、行くことにしたのだった。
展覧会の批評だが、難しい。まず、前半と後半は場所を入れ替えたほうがよかったのではないか。前半が明るい部屋で、資料展示があり、後半が暗い部屋で、映像や未来の技術が体験できる展示にしたほうがよかったのでは。
真鍋パートのキュレーションは疑問が残った。電波を可視化した作品は、坂本とのコラボレーション作品であり、再展示の意味がある。それ以外の作品については、坂本さんが生きていたら気に入ったであろうアーティストとのコラボレーションという形で構成されていた。Strangeloop Studios、404.zero、カイル・マクドナルドなど。
しかし、それらは厳密には坂本作品ではない。坂本さんが気に入るはずだと真鍋さんが思っているアーティストの新作、でしかない。そのため、坂本龍一という名前を使った展覧会にこの作品を含めるのはどういうことなのかと、だいぶ疑問が残った。
たとえば、ディープラーニングを使った展示は当時の技術的には最先端だったかもしれないが、映像としては作品として作られたものではなく、作品として成立したものではなかった。これは技術展示か?と思った。
つまり、坂本龍一がどのようにアーティストと向き合ってきたのかについて、根本的に外しているのではないか?と感じたということだ。坂本さんは、単に面白いアーティストを見つけてきて一緒に作品を作ってきたということではない。その場その場で、アーティストと向き合い、何を考えているのか、何ができるのか、何をテーマとするべきなのか、一つ一つを話し合って決めてきた。そのような私自身が持っている坂本さんの姿勢からはかけ離れた展示になっていたのではないかと、疑問に思ったのだ。
坂本龍一の大規模展覧会の前に、坂本がディレクションした芸術祭がある。2013年にはYCAM10周年記念イベントののアーティスティック・ディレクターを務めている。私はここでは、コンペの審査員という形で関わっている。このときが、私が坂本さんにお会いした最後の機会となった。そして、二人で写真を撮ってもらった唯一の機会となった。私はかなり何度も坂本さんと一緒に仕事してきたが、実は二人で写真を撮ってもらったことは一度もなかったのだ。意識的にそうしていた。二人で写真を撮ってくれとお願いしたら、仕事上での関係が崩れてしまうのではないかと感じていたからだった。
私が坂本龍一のサインを一つも持っていないのは、同じ理由である。
坂本さんは、このYCAMのイベントの後に、最初の癌が発覚した。
2014年、札幌国際芸術祭のゲスト・ディレクターを引き受けていたが、その理由で一度も現地に行けなかったのではないかと記憶している。
文脈
前述のように、2023年末のNTT ICCのトリビュート展、2024年12月の都現美での展示がある。これが最後ではないだろう。しかし、都現美の展示は、いまぜひ見るべき内容だと思っている。
私としては、この展覧会は、坂本龍一とメディアアーティストとのコラボレーションの軌跡を辿った展覧会と位置付けられると思う。その中でも特に、高谷史郎と坂本龍一のコラボレーションを巡る展示である。
さらに言えば、北京や成都での展示では、MPIxIPMの再現展示は見られなかったはずだ。つまり、1996年の岩井俊雄とのコラボレーションから1999年LIFEでの高谷史郎とのコラボレーションへとつながる道筋が示されている。私にはそう見えている。
といっても、その道筋ははっきりとはしていない。
1999年のopera LIFEで、浅田彰が高谷史郎を紹介し、コラボレーションが始まった。資料としてはそう記述されているだろう。
だが、私はいまでも、1996年の水戸芸術館で、浅田彰と高谷史郎の二人が観客として見に来ていたのを覚えている。開演前のわずかな時間に、坂本さんが二人と挨拶をしていた。2人には、かなり深く記憶に残っていたのではないだろうか。
私自身は、その両方のイベントにスタッフとして関わっている。なので、その感想をもっと聞いておけばよかったと思っている。
私が横で見ていて感じたのは、坂本さんはコンサートとして自分なりの表現をしたかったのではないか。そのためのパートナーを探していた。1999年に大規模なプロジェクトを行うことになり、パートナーとして高谷史郎を選んだ。それがついに25年以上の関係になったわけである。
その意味では、私としては、1999年のopera LIFEが、高谷史郎と坂本龍一のコラボレーションにおけるもっとも重要なイベントだったと考えている。
opera LIFEの評価は難しい。浅田彰の言葉を借りれば、難しすぎて一般の人には理解されなかったということでもある。でも、難しくなりすぎちゃった理由の一端は浅田さんにあるのではないか……と思わなくもない。
歴史、政治、文学、思想などを背景とした20世紀そのものをテーマとした作品を作る。言葉にすれば簡単だが、実現はそう容易ではない。この難しいプロジェクトを、彼はトータルにディレクションした。
私自身もその一員だったため、客観的に言えないところもあるが、あれだけ密度が濃く、彼の思想をまるごと全て注入しようとしたプロジェクトは、他にはなかったと思っている。
これは公開情報であるので書けると思うが、このopera LIFEの準備の終盤に差しかかり、彼はこのプロジェクトを下りたいと言っていた。アドバイザーである浅田彰に相談し、さまざまな人からの説得があり、ひとまずは完成まで持っていった。
その理由は、サルマン・ラシュディにある。よく知られているように、サルマン・ラシュディはイスラム教から殺害予告されていた。そのこともあり、多くの人が見に来るこのイベントで、サルマン・ラシュディをモチーフの一つに含めることは避けてほしいと朝日新聞社側から要請があった。しかし、それは検閲であると反発したのだった。
結果としては、事実上は、サルマン・ラシュディが作った物語は検閲され、実質的には映されなかった。彼の作った英文のストーリーは、その単語が画面上にぽつりぽつりと表示され、断片的な英単語を舞台上のダンサーが読み上げるというシュールなシーンになった。それで満足だったとは思っていないだろうが、完成させ、開演させるためには必要な「妥協」だったのだと思う。
坂本は、これ以降、このような大規模プロジェクトは行っていない。LIFE以降の坂本という意味では、様々な解釈があり、説明があるだろう。本展覧会の作品の多くは、まさにこのLIFE以降である。その意味では、私はそれ以降のコラボレーションは客観視できるつもりだが、それでもなお、私にとっては1999年のopera LIFEこそがハイライトであり、一番大きな舞台だったと思っている。
正確を期すために書いておけば、私は本展示を担当した森山朋絵さんとは旧知の仲であり、メディアアートについては何度も話をしている。本展覧会については細かくは話していないが、彼女なりの本展覧会への意図を理解できているつもりだ。その意味で、森山さんだったからこういう展覧会になったのだと思うし、森山さんがいてくれて本当に良かったと思っている。
P.S.
2月22日(土)14:00から、都現美で、岩井俊雄によるアーティストトークが開催される。私もそこで、ゲストとして登壇することになっている。
残念ながら事前予約は一杯になっている。瞬殺だったようである。申し訳ない。