【好きなもの】入間人間 『安達としまむら 5』
好きという気持ちを形にするのが好きで、こういったマガジンを書いています。そんな私なので入間人間先生の『安達としまむら』がものすごく好きです。女の子同士の恋愛、いわゆる百合というジャンルに分類される小説なのですが、この『安達としまむら』は「何かを好きな感情の描き方」がとても綺麗なんです。今回はその中でも特に気に入っている、「第5巻の73ページ以降」を引用しつつ好きポイントについて語ろうと思います。
ちなみに、私は安達(CV:佐倉綾音)としまむら(CV:黒沢ともよ)で再生しています。
本文の73ページ後半から、しまむらノートを忘れたことに気づいた安達が教室に入ってからのシーン。夏休み初日。終業式の放課後。誰もいない教室で好きな人のことを思い出す。学校、教室という舞台に自分一人しかいないという環境が青春を物語るのにうってつけですよね。
まず、全体の表現として、「好きだ」と直接言うことをしてないのが一番良いところ。それでいて全体から「しまむらが好きだ」という気持ちが強く伝わってくる。この文章が凄く好きで、入間人間小説には『安達としまむら』で初めて触れたんですがもうこれだけでファンになりました。
日本人、日本語の「隠す文化」に関しては「I love you」の訳を持ち出すまでもありませんが、それを登場キャラクター個人の性質としてしっかりと置いて、一人称の地の分にもしっかり反映させている辺りがとても好きなんです。
以下、一つ一つ好きなところを見ていきましょう。
あのときは曖昧に『へぇ』と流していたけど、今ならそんな涼しい受け答えはできない。
しまむらを好きになった自分と、意識していなかった時期の自分を比較している安達。そして、そんな感情を抱いている自分の行動と現状を正しく認識していて、それを伝えることで感情を表現しています。
きっと頭と一緒に足も空回りしているのだ。しばらく歩いて、伝う汗に足を止める。
夏の日を感じるのも、しまむらを考えた後の話。季節よりしまむらを考えることの方が日常で、自分に近い。感覚よりも感情が優先されるのは、その思いの強さがあればこそ。
もっと広く、しまむらを全体に見る。
しまむらを想う際の、自らの視野の狭さを自覚する安達。
顎を伝うような熱の靄。指で触れて、見つける。もし、しまむらがここにいたら。暑いと、思うだろう。
感覚より感情優先その2。そして、自分の感情ではなく好きな人の感情について考えるときの優先度は、もっと高い。
まずそれを何とかしようとする。そう気づいて、足が動く。窓に寄り、開け放つ。
自分のためではなく、しまむらのための行動は早い。彼女がここにいるかどうかはともかく。
窓際を、真一文字。全部の窓を開けて、風通りをよくしてやった。
真一文字という言葉から、「真っ直ぐ」駆け抜ける様を連想。素早さは行動力と心の在り方の形容。
窓から距離を取り、教室の中心あたりに立つ。開放を待ちわびていたように、外からの音が教室に流れ込む。閉じ切っていた空気がかき回されて、暴れる流れを肌に感じた。
前項の風通りと合わせて、閉塞からの解放感のメタファー。解放されてまず感じたのは風ではなく、音。自分の想定していた効果(暑さを和らげる)が実際に起こるのは2番目で、まずは自分の意識の外から物事が起こっていく。教室の中心あたりに立つ、というのも普段の自分なら行えない行動の一つ。
悪いことをもう一つしてみる。机に腰かけて、足を伸ばした。教室に誰かがいたら絶対にできないことだ。
悪戯の延長。絶対にできないことというのは、普段の自分なら行えないこと、踏まえて「今までの自分ならしなかったこと」につながる。それが、何か一つ行動を起こしたことで「もう一つしてみる」と簡単に行動に移せるくらいに次の行動の限界費用が下がる。これがこの先、安達が行動を起こしていくことへの伏線になる。
体は重力に引かれるように沈み、大きく息を吐く。耳鳴りと、巡る血の音が聞こえる。
重力という「今から動かないための力」に捕らわれている自分の自覚を強める。これは後述の「祈り」に掛かっていますね。「耳鳴りと、巡る血の音」は安達が自身の内側に対しての感覚を大事にしているという表現。ここに限らず、安達は自分の体内の音を聞いている描写がよく出てきます。
しまむらがここにいたら、今の私を笑ってくれるだろうか。
お前どんだけしまむらのこと好きやねんていう。
太陽が雲で隠れて、束の間、日が和らぐ。教室に、光のように影が差しこんだ。
教室に差し込むのはあくまで影。光ではなく影を望む感覚は、夏であることを考えれば普通なんですが、「差し込む」という表現と合わせるには違和感を覚えるもの。この違和感は、「私が望んでいるものは普通とは違うことだ」という葛藤のメタファーかなと思います。百合にはありがちな葛藤ですね。良いんだけれども。
その隙を縫うように、萎びていたカーテンを淡く揺らす。風が来たと告げられる。
風は自分に清涼という快感を運んでくれるもの。その風の到来を感じる安達。
未だ生温い、でも。未来へ駆けるように忙しない風を、体が軽くなるようにと祈って吸い込んだ。
風は、清涼という快感だけでなく、背中を後押ししてくれる希望にもなってくれる。二重の意味を持った表現。重力に捕らわれている自分が少しでも軽くなるように、そんな祈りは、動けなかった過去から抜け出す行動力を得るために。
といったところで、穿ちに穿って古典の授業ばりに解釈を述べました。「好き!」ってのが伝わってくる名文だと思っていますし、何よりそのシーンそのものが「青春!」って感じが強くてすごく好きなんですよね。繰り返し言いますけど、
「真夏、
「終業式の放課後、
「誰もいない教室で、
「窓を全開にし、
「机に腰かけて足を伸ばし、
「暑さと重力と風を感じながら、
「好きな人のことを考える」
って青春ワードのオンパレードじゃないです? こんな青春シーンを読んだのは『イリヤの空、UFOの夏』以来だと思います。あれは全部のシーンが青春なので。
このシーン、画面には安達一人なんですけど、実質しまむらも同居してるんですよ。安達の頭の中のイメージしまむらはこのシーンではめちゃくちゃ質量をもってるんです。ここには安達しかいないし、安達が感じていることしか描写されていないのに、その描写は全てしまむらにつながってるんですよ。安達の妄想力と入間先生の表現力の賜物。最高。『安達としまむら』好きです。本当に好き。今のところこのシーンが最高だと思っているけれど、それに匹敵するシーンはたくさんある。百合に関わらず、恋愛だとか、何かを好きになる話が好きな人に一度読んでほしい。私からは以上です。