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タッピング楽器の歴史について

 タッピング楽器はトニー・レビンの影響からベースからの持ち替えでスタートしたプレイヤーも多く、どちらかと言うとベース専門誌で取り上げられる機会も多いのですが、歴史を踏まえるとエレキギターから派生した楽器とするほうが正しく思えます。

 歴史的に大きな転機となったのは1974年でチャップマン・スティックの最初の製品が世に出されました。タッピング暦元年と言ってよいでしょう。しかしまた、紀元前があるように、それ以前の歴史というものが存在しています。

 タッピング奏法というものは、フレット付きの楽器を前にした時に誰もがやる行為のようで、古今東西のさまざまな弦楽器に見られます。バロックギターやリュートの時代でも行われていたと言われ、その起源を探ることは困難です。

 アコースティック楽器の場合は音量の限界がありますが、エレクトリック化により、アンプで増幅し大きな音量で鳴らすことが可能となりました。

 ハリー・デュアルモンドはアーチトップギターの後付ピックアップを最初に市販したとされます。1940年代後半からディアルモンドのピックアップはグレッチ社のギターに標準で搭載されるようになりました。ディアルモンドは自身の開発したピックアップの感度の良さをアピールするためにデモンストレーションでタッピング奏法を行い、後に2本のギターを使って両手で行うなど、発展させていきます。

 ギターを用いて両手でタッピングする奏法では、スタンリー・ジョーダンやアダム・フララなどが知られていますが、ハリー・デュアルモンドと同時代を生きたジミー・ウェブスターがその元祖だと言われています。ジミー・ウェブスターは1930年代にニューヨーク市でミュージシャンとしてのキャリアをスタートし、ピアノ調律師、小売業、グレッチ社へのコンサルティングなども行ってきました。第二次世界大戦中は航空隊所属のミュージシャンとして過ごし、戦後はニューヨーク州ロングアイランドで本格的にグレッチ社との仕事をこなすようになります。ジミー・ウェブスターはWikipediaの英語版のページも執筆されておらず、レコーディングされたアルバムも現在では入手困難で、ずっと知る人ぞ知る、といった存在だったのですが、2008年に生誕100周年を祝して、グレッチ社のブログやGoogleの特設サイトなどで功績を称えられる機会に恵まれました。おそらく、楽器愛好家に一番手短に、ジミー・ウェブスターの功績を説明するならば、ホワイト・ファルコン、シルバー・ジェットの企画、デザインを担当し、チェット・アトキンスとのグレッチ社の契約に携わり、6120 チェット・アトキンス・モデルもまたデザインしています。50年台のグレッチ黄金時代の立役者と言ってよいでしょう。

 ジミー・ウェブスターのもう一つの業績が両手を用いたタッピング奏法に関係するもので、簡易な教則本の出版(1952年)、 ステレオ出力可能なギター用ピックアップの発明(1956年)、両手タッピング用いたアルバムのレコーディングです。演奏者として、教育者として、技術者として、一人で多くのことを成し遂げています。誰かに似ていると思いませんか? そう、エメット・チャップマンです。記事を書く以前は、ジミー・ウェブスターについては、タッピング奏法の歴史で初期に出てくる人、程度の認識でしかなかったのですが、調べれば調べるほど、掘り下げる必要があると思うようになりました。

 エメット・チャップマンは特にジミー・ウェブスターの影響を受けることなく、 自身の演奏スタイルを築き上げています。ジミー・ウェブスターの存在を知ったのは後になってから、と振り返っています。エメット・チャップマンはジミー・ウェブスターの奏法を「右手のテクニックが制限される。」「ギタリストやギター講師に知られことなく、継承されることもなかった。」 としてあまり評価していません。

 ジミー・ウェブスターは「Webster's Unabridged」というアルバムを1958年12月にレコーディングし、翌年レコードが発売されます。これまでの経緯からも想像がつくようにCD化はされていません。ほとんど誰も彼の演奏を聴いたことがないような状況でしたが、現代においては、Youtubeやmyspaceなどで彼のレコードを聴くことが可能です。

Jimmie webster - a wonderful guy

https://www.youtube.com/watch?v=KyFEJ4xSBEk

Jimmie Webster's Songs 

https://myspace.com/jimmiewebster/music/songs

 50年代のジャズ・ギターといった風情ですが、テクニックに関しては今でも全然陳腐には感じられません。「ダビング一回くらいかな?」と思っていたのですが、「一本のギター、一回の録音。トリックなし、マルチテープなし、ダビングなし」とレコードの裏面に書かれています。エフェクトとボリュームペダルでオルガンのような音を右手でメロディ、ときにはベースラインを弾き、左手では常に伴奏を続けています。聴く限りでは全貌がつかめない奥の深い演奏です。

 今聴いても唸らせられる演奏を残しながら、プレイヤーとして特に脚光を浴びることが無かったのは不思議ですが、ジミー・ウェブスターは他に仕事を持っていたので、演奏者として、そこまでアピールする必要は無かったのかもしれません。ちなみにジミー・ウェブスターの生年は1908年です。レス・ポールの生年が1915年、ジャンゴ・ラインハルトが1910年です。そのような革命を起こしたギタリストよりも上の世代であることを考えると、彼の演奏が広く理解され無かったことは惜しい反面、無理もない、とも思えてきます。

 ギターの弦数を拡張し、縦に近い形で楽器を構え、両手でタッピングを行うスタイルを生み出したのはエメット・チャップマンです。 エメット・チャップマンは演奏者でもあり、新たなハードウェアを開発する技術者でもあり、生産に携わる職人でもあり、楽器の普及に貢献する教育者でもあり、会社の経営者でもあります。1987年の記事では2000人近いチャップマン・スティックプレイヤーが居るとされ、2003年の記事では5000人を超えると推測されています。新しい楽器としては例外的な大成功を収めたといって良いでしょう。チャップマン・スティックの革新性やエメット・チャップマンの偉大さ、などについてはさまざまな記事で書かれていますが、なぜ成功を収めることがことができたか、についてはさほど考察されていません。革新的な演奏を10年前に行っていながら、時代に埋もれてしまったジミー・ウェブスターとは異なっています。また、90年代からチャップマン・スティックの影響を受けた後発の楽器が現れるようになりますが、チャップマン・スティックは現在でも市場をリードしています。それは何故でしょうか?

 エメット・チャップマンは1936年の生まれです。ロックミュージシャンの多くが40年代生まれで、彼が衝撃を受けたとされるジミ・ヘンドリクスよりも年上なのです。同年代のミュージシャンというとジェームス・ジェマーソン、というあたりで時代の感覚がつかめるでしょうか。エメットの母であるベネチアはプロの歌手であり、少年時代にはアコーディオンを演奏するなど、音楽はエメットにとって身近なものでしたが、主要な関心事というわけでもなく、学生新聞、ポスターの製作、スポーツなどに熱心でした。ギターを本格的に始めるのが大学在学中の1959年で、バーニー・ケッセルのアルバムを聴いてプロのミュージシャンを志すのも同じ年です。22歳で、既に結婚し子供もいて、住宅を購入したことからローンも抱えているであろう状況で、レイトスタートのギターでプロを目指すのは、時代が違うとは言え大胆過ぎます。後に工房を構えることから工学か、あるいは芸術の分野の専攻かと思いきや、政治学で学位を取得しており、本当にミュージシャンを志したのは大きな方向転換であったと推測されます。

 エメットがチャップマン・スティックに繋がる発想を得たのが1969年、32歳の時です。この10年間の経歴を見ると、レイトスタートで妻子を抱えつつプロのミュージシャンとして生計を立てるのは一筋縄ではいかない、という印象です。エメットの妻ユタは昼、事務の仕事を行い、エメットは夜、ロサンゼルス近郊のクラブで演奏してやり繰りをしていました。この頃からギターのスケールの延長やビブラート用のスプリングのとりつけなど改造も行っています。1962年に二人目の子供が生まれると、流石に生活を落ち着かせる必要を感じたのか、1963年に空軍に志願します。大卒者を対象とした士官の研修を受けて少尉の階級でベトナム戦争に従軍します。空軍時代にもギターの改造を続け、65年の時点でロングスケール、9弦、変形ボディになっています。4年で軍務を終えるとエメットはカリフォルニア州の公務員として生活費を稼ぐようになります。1969年8月に突如、両手タッピングを閃いた、ということが強調されていますが、遅れてギターをスタートしていろいろと専念できない事情を抱えつつプロのミュージシャンを志すエメットにとって、誰もやらないような独創的な演奏というのは必然といいますか、そのためのギターの改造ではないのか、と思います。チャップマン・スティック愛好家からは神秘的な切り口で語られがちなエメット・チャップマンの経歴ですが、むしろ、地道な下積み時代と不利を覆すための画期的なアイデア、というものが、その先の活動の鍵となり、成功の要因なのではないでしょうか?

 1970年からチャップマン・スティックのプロトタイプの作成が行われます。プロトタイプ1号は「The Electric Stick」と名付けられます。まだ、ボディ部分は残っているもののスティックという名称はここから始まりました。

 1974年に最初の量産タイプのスティックが5つ生産されます。エメットとピンポンを一緒にプレーしたジョー・ザビヌルがそのうちの一つを購入した、と唐突な切り口紹介されていますが、最初の5つのスティックをどう扱うかは重要な宣伝活動です。エメット・チャップマンという人物の経歴とその後の行動から考えるなら、かなり戦略的にジョー・ザビヌルとの接点をもったと考えられます。1974年からウェザーリポートのアルバムに参加し後にメンバーに加わるアルフォンソ・ジョンソンは最初期のスティックプレイヤーとして知られていますが、アルフォンソがスティックを手にすることになったのも、エメットの最初の活動が大きく作用していると考えられます。ジョー・ザビヌルの自伝本や研究本でも特にチャップマン・スティックには言及されていませんでしたが、ウェザーリポートのベストライブアルバム『Live and Unreleased』にはアルフォンソ・ジョンソンの欄にエレクトリック・ベースとチャップマン・スティックがクレジットされています。

 1974年にエメット・チャップマンがテレビ出演した映像が記録に残っています。冒頭の部分は冗長なので、核心部分からスタートさせます。

Emmett Chapman on What's My Line - two-handed tapping

https://youtu.be/VGcvHgXtgiY?t=6m16s

 価格は550ドル、と言っているのでしょうか。出演者に通じているかは不明ですが、ピックアップの構造や奏法などしっかりと説明し、エメット独特の節回しによる「Yesterday」のデモ演奏で締めくくられます。初期のスティックのフレットは後のモデルとは異なり、ギターに近いものを採用しているせいか、音の印象がだいぶ違います。エメットの左手の伴奏も後のものと異なり、ベースサイドとメロディサイドを併用したコードと、シンプルなルートの演奏が目立ちます。

 チャップマン・スティックの存在を世界に知らせたということに関して、トニー・レビンの貢献は計り知れないものがあります。多くの人が「スティックといえばトニー・レビン」という認識で、関心を持って楽器について調べる過程でエメット・チャップマンや他のソロスタイルのプレイヤーの存在を知っていく流れでした。チャップマン・スティックが広く流通するレコードに使われた例で言うとアルフォンソ・ジョンソンのソロアルバム『Spellbound』が1977年のリリースですが、より多くの世界的に注目を集めたのは、既にソロアーティストとして大成功を納めていたビーター・ガブリエルが1978年にリリースした『Ⅱ』です。トニー・レビンはこのアルバムのプロデューサーを務めていたロバート・フリップと親交を持つようになり、ロバート・フリップのソロアルバム『Exposure』への参加を経て、再結成されたキング・クリムゾンのメンバーに加わります。『Discipline』の一曲目「Elephant Talk」のイントロからチャップマン・スティックが大きくフィーチャーされ、楽曲そのものもチャップマン・スティックの音色、特徴的なリフが成立に大きく関わっています。トニー・レビンのもたらした衝撃は大きく、後のチャップマン・スティックや他のタッピング楽器のプレイヤーの中でもトニー・レビンの影響を受けて楽器を始めた者は数多く存在しています。

 Kajagoogooのニック・ベッグスは90年代にはトニー・レビンについでスティックといえば名の挙がるプレイヤーでしたが、彼がチャップマン・スティックを手にした理由は1978年にピーター・ガブリエルのコンサートでチャップマン・スティックを演奏するトニー・レビンの姿を見たことによるものでした。Cynicのオリジナルメンバーの一人であるショーン・マローンも80年代にキング・クリムゾンのライブビデオ『Three of a Perfect Pair: Live in Japan』を見たことがきっかけで楽器に興味を持ち、地元の楽器店に並べられているチャップマン・スティックを偶然に発見して購入したと言われています。このように後から続くミュージシャンの活動によりチャップマン・スティックの認知が進むようになりました。トニー・レビンも当時ドリーム・シアターのメンバーであったマイク・ポートノイに誘われる形でLiquid Tension Experimentに参加し、若い世代のメタル愛好家にも意外とチャップマン・スティック知られている、という状況をもたらします。

 1995年にキング・クリムゾンの11年ぶりのアルバム『THRAK』が発売され、バンドはワールドツアーを行います。6人編成のキング・クリムゾンはトニー・レビンに加え、トレイ・ガンが参加し、2人のスティックプレイヤーが在籍していることが話題となっていました。しかし、ツアーでトレイ・ガンが使っていたのはチャップマン・スティックとは異なる楽器でした。ウォー・ギターという新しい楽器はチャップマン・スティックより既存のベースに近く、ボディがあります。スティックのように縦に近い構えも可能ですが、より水平に近く構えてピッキングを行うこともできます。

 最初のウォー・ギターが形になったのは1991年だと言われています。マーク・ウォーはカリフォルニア州の消防士というのが本業ですが、趣味の一環として自作のタッピング楽器を作り始めました。マーク・ウォーのメインとする楽器はキーボードで、意外なことにウォー・ギターはスタンドに取り付ける横置きの楽器としてスタートしました。これだけを素朴な日曜工作のイメージでしかないと思いますが、マーク・ウォーは有名なベースビルダー、マイケル・トバイアスが初期の頃に少人数で工房を運営していた時代に修行していたと言われます。マーク・ウォーが自作のタッピング楽器を製作しているとの話を耳にしたギタリストのランディ・ストロムは自分のためにギターのように握り込める楽器を作って欲しいと持ちかけます。マーク・ウォーは欲しかった機材の購入資金のために引き受けます。ギターのように握り込める楽器というのは初期の時点で考えられていたのですが、バランスを取るのが難しいという理由で諦めていた要素だったので、製作は難航しましたが、完成にこぎつけました。

 ランディ・ストロムが新しいタッピング楽器を用いて演奏している場に、たまたまバンドのツアーで街に訪れていたトレイ・ガンが居合わせ、二人に交流が生まれます。トレイ・ガンはチャップマン・スティックのシンプルなデザインを気に入っていましたが、ウォー・ギターのピックアップのバリエーション、ロックペグ、可変ブリッジといったハードウェアとそれを落とし込んだデザイン、そしてサウンドにも強く惹かれました。6ヶ月ほど考えた後にマーク・ウォーに楽器の製作を依頼します。キング・クリムゾンのファンだというマーク・ウォーにとってトレイ・ガンからの電話は驚くべき出来事でした。ちょうどキング・クリムゾンの再結成が話題になっていた時期でした。仮にトレイ・ガンがウォー・ギターを使う事態になった場合、趣味の楽器製作のレベルを超えた注目を集めることは間違いなく、マーク・ウォーは引き受けることに葛藤があったと証言しています。しかし、結局はウォー・ギターズをフルタイムの事業として運営し、トレイ・ガンのために楽器をつくることになりました。まず、トレイ・ガンが使用していたグランド・スティックの弦が伝えられ、最初のプロトタイプが作られます。それは徹底的に検証され、3ページの改善点がリストアップされました。その4週間後にそれらすべてが解決された新しい楽器が届きます。これが実際にツアーで使われ、事業として新たにスタートしたウォー・ギターズの最初の楽器となります。

 1996年にエメット・チャップマンは妻ユタ、会社スティック・エンタープライゼス社と共にマーク・ウォー、トレイ・ガン、当時は小売業者だったトラクター・トパーズ、他関係者2名に対し裁判を起こします。ウォー・ギター裁判として知られ、1990年代のタッピング楽器周辺ではとても大きな事件でした。スティック・エンタープライゼスがウォー・ギターズを訴えた、あるいはエメット・チャップマンがマーク・ウォーを訴えた事件としては認知されていましたが、日本では当時、誰も具体的内容を把握して居ませんでした。多くの人の認識ではチャップマン・スティックの特許をウォー・ギター侵害したのではないか、と誤解されていました。実際には名誉毀損、企業秘密の流用、リベートなど不公正な取引方法など、商法上の問題があるとして訴えを起こしていました。特許が争点とならなかった理由の一つにタッピング楽器の発明に関わる特許が先行技術の発見により無効化するという出来事が1983年にありました。デイブ・バンカーのデュオ・レクターと呼ばれる楽器が1960年に発明されており、先行しているとの判断が米国特許商標庁により下されました。

Dave Bunker - Duo-Lectar

https://www.youtube.com/watch?v=EAstqXR4QTc

 1997年にウォー・ギター関連コミュニティからさまざまなメーリングリスト、ディスカッショングループに向けて興味深い投稿が行われます。ウォー・ギター防衛基金とでも呼べば良いのでしょうか。裁判費用の寄付をお願いする内容で、裁判の争点も書かれています。1996年に始まった裁判により、被告側は8ヶ月で83,000ドル、マーク・ウォー個人だけでも40,000ドルの裁判費用を負担しました。このまま続けば、裁判でどちらの言い分が正しいか判決が出る以前に裁判費用で破産する可能性が大きい、として支援を呼びかけています。

CHAPMAN STICK(R) SUES WARR GUITARS & PLAYERS, HELP!!!

https://groups.google.com/g/rec.music.makers.builders/c/RmosL4uRzgw

 支援者の中に先ほどのデイブ・バンカーの名前があるあたり、その他のタッピング楽器勢としては、今後の活動に関わる裁判だと認識されていたのでしょう。そして、この投稿に対するエメット・チャップマンの返信も記録に残っています。

CHAPMAN STICK® REPLIES TO WARR

https://groups.google.com/g/rec.music.makers.builders/c/mYNoGgIpsYY/m/lFnFHZRTzZYJ

 要約するなら、「ウォー・ギターのプレイヤーについては不満には思っていない。我々の商標や顧客リストを悪用している者がいる。当社の製品やサービスが誹謗中傷されている。」という内容になるでしょうか。しかし、ウォー・ギター防衛基金の主張する裁判の争点が正しいのかどうか、という部分には答えていないと感じられます。結局のところ判決が出るのを待つしかありません。

 結論から言うと、裁判は証拠不十分により棄却されます。ウォー・ギターが商法上問題のある誹謗中傷や顧客リストの流用、リベートなどを行っていたとする証拠は審議するには十分ではない、商標や特許を侵害していたという事実もない、という扱いです。被告側の一人、トラクター・トパーズはよっぽど嬉しかったのか、以下のような投稿を行っています。

NEWS: Press Release: Emmet Chapman's Lawsuit -- Dismissed!

http://et.stok.ca/digests/486.txt

 訴訟の時点では小売業者だったトラクター・トパーズですが、棄却の決定でなにか感じるものがあったのか、自らも1999年にメガターというタッピング楽器を製造、販売するようになります。メガターもウォー・ギターのようにボディを持ち、ストラップを掛けて演奏する作りになっています。

 タッピング楽器の歴史を知る上でもう一つ欠かせないのはアンクロス・チューニングの開発です。エメット・チャップマンが開発したのは楽器だけではなく、弦の配列、チューニング、運指法、教育メソッドなど多岐にわたります。特許にもなったチャップマン・スティックの基本的なチューニングは次のようなものです。1弦から5弦までをメロディを演奏するのに用い、1弦を最高音にして4度づつ下降していくようにチューニングします。6弦から10弦までをベースラインやコードを演奏するために、6弦を最低音に5度づつ上昇するようにチューニングします。詳細や、その他のバリエーションについてはこちらにまとめられています。

Stick Tunings

http://www.stick.com/instruments/tunings/all/

 ベースラインを弾く左手が下降し、メロディを弾く右手が上昇するなら問題ないのですが、それぞれ逆方向に動く流れだと、右手と左手が鑑賞し、最終的にはぶつかってしまいます。これを避けるためにはアレンジを工夫するか、12弦のグランド・スティックを使ってポジション移動を少なくするしか無いのですが、右手と左手があまり離れすぎても演奏しづらくなってしまいます。この問題を解決するのがアンクロス・チューニングです。1弦から5弦までの役割と6弦から10弦までの役割をそっくり入れ替えます。1弦が最低音になり、5度づつ下降してベースラインの担当、10弦が最高音となり、4度づつ下降してメロディを担当します。フランス人のテリー・カーペンターが最初に考えだしたと言われています。テリー・カーペンターのチューニングはスティックのクラシック・チューニングと呼ばれる最も一般的なものから、ベースサイドとメロディサイドを入れ替えて、メロディサイドを一音半下げたものです。

 日本人の小籔良隆は「テリー・カーペンターという人物がベースサイドとメロディサイドを入れ替えたチューニングを開発し、アンクロスと称している」という知識のみを頼りにクラシック・チューニングをそのまま反転させたアンクロス・チューニングに移行します。チャップマン・スティックでアンクロス・チューニングを用いるためには楽器の改造と弦の調達を工夫しなくてはならないですが、小籔は大阪、神戸を拠点として80年代からノウハウを蓄積していきます。また、教室を主催してその知識を広めていきました。タッピング楽器は入手がまず困難で、価格も高価という難点があります。低いポジションのフレット間隔が広いため、2本の指で交互に弾くツーフィンガーのような奏法が可能です。しかし、デメリットとして基本的な三和音でも、厳しいストレッチを要求されるコードが多くあります。手の小さい子供や女性にとっては不利に作用し、一から学ぶにはかなり強い信念を持って取り組むことが要求されます。小籔はタッピング楽器の普及を目的とし、コヤブボードという独自の楽器の開発を1980年代から行っていきます。90年代にはヘッドレスでアンクロス・チューニングでも弦の対応がし易い、など方向性が定まっていき、モデルはプロト5まで進みます。そこから冒険的な仕様を盛り込んだプロト6まで作られますが、基本はプロト5としてコヤブボードの量産プロジェクトが日本のメーカーであるディバイザーとの間で進められていきます。2005年に12弦、30インチスケールのコヤブボード・スタンダードが231,000円という価格で発売されます。12弦の楽器は新品で30万円以上という相場だったので、この価格設定は注目を集めました。2007年に普及モデルのコヤブボード・TINYが13万円前後で発表されます。チャップマン・スティックでタッピング楽器に興味を持ちつつも、価格の高さで諦めていた層にアピールする価格でした。値引きにより、更に安く購入できた時期もありました。

 コヤブボードでもう一つ画期的だったのは、スタンドがオプションとして用意され、後に標準で付くようになったことです。タッピング楽器は多弦ゆえに楽器の軽量化にも限界があり、長時間演奏する場合の体の負担は、決して小さくはないのですが、スタンドを用いることにより、肩や腰の負担を大きく減らすことが出来ます。演奏はどの奏法でも特に犠牲になることはなく、ストラップが不要になることから、より右手が自由に使えるようになるメリットもあります。

 コヤブボードは、現在ではディバイザーでは取り扱われておらず、商業的に成功を収めたとは言えませんが、それでも、いくつかの意義ある試みを行い、タッピング楽器の普及に貢献したことは事実です。ヨーロッパではチャップマン・スティック以外のタッピング楽器に対し一定の需要があり、アコーディオンの伝統があるせいか、アンクロスチューニングのプレイヤーも他の地域より多く見られます。「コヤブボードみたいな楽器を」という需要からZiggyという後発のタッピング楽器が生まれました。スティック・エンタープライゼスも他のタッピング楽器が登場してくる中でショートスケールのスティック・ギターを発売したり、10弦、12弦のスティックを36インチ仕様に変更したりと、一つの場所にとどまっているわけではありません。この先も新しい楽器が登場する流れは止まらないでしょう。

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