
「全員ジョーカー化時代の到来説」
ジョーカー2 (ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ)について、観てきた感想を。

バンコクでの公開日は重要なミーティングが重なり、時間が作れず残念。翌日のパタヤ旅行でチャンスがあればと思ったが、初日のレビューを観て少し冷めてしまい断念。ただ、パタヤの映画館で、家族でも観られるトランスフォーマーのアニメ映画が同時刻にスタートしたので、私も一人だけでジョーカー2を観る機会に恵まれた。
夕方6時半から始まった長すぎる広告で、興奮も期待も失せたまま本編に入った。冒頭のアニメーションを観て、「こんなのも今や珍しくないな」と思いつつ、不要なシーンだと感じる。そのまま本編を観ていたが、気づけば眠りに落ちていた。
目を覚ましても画面は似たような場面が続いていて、ハーレクインの登場シーンを観たくて観続けた。どうやら2人は会えたようだが、特に面白さは感じられなかった。「きっと自分の英語力が低いせいだろう」と自分に言い聞かせ、日本語版を待つことにして途中で退席した。
その後、世界的な評判や日本人による解釈の動画を観て興味深く感じた。特に、否定的な意見が大半を占める「賛否両論」の状況に納得がいった。一方で、少数派の賛成意見にも耳を傾け、その視点にも一理あると感じた。これらの意見を聞いて、やはりもう一度観たいという気持ちが強まり、日本語版の公開を心待ちにしている。
そんな中、今朝SNSで目にした闇バイトによる強盗事件の遺族の怒りは、心に強く響いた。「同じ目に遭わせたい」という言葉に込められた絶望的な怒りは、ジョーカー1でアーサーがジョーカーという別人格を生み出してしまう状況と驚くほど似ている。
ジョーカー2は、結局アーサーがごく普通の人間だったという説明的な作品だったと聞く。つまり、誰もが不幸な状況下でアーサーのようにジョーカー状態に陥る可能性があるという警告なのだろう。
ジョーカーという現象は、普通の人が理不尽な不幸に遭い、自暴自棄となって凶悪な行動を起こすこと。これは今の時代の新たな社会病理現象と言えるかもしれない。
この作品を社会への問題提起として解釈すれば、非常に説得力のある内容となる。興奮を呼ぶ1作目に対し、冷静に社会を見つめ直す2作目。この2部作としての構成は、高い完成度を持つ解釈を可能にしていると考える。
観た私がそう解釈すればいいのだが、実際には眠ってしまった。英語力の不足のせいだと言い訳しているが、映像や音楽の質はどうだったのだろうか。私を眠りに誘ったその作品のクオリティは、嘘をつくことはできない。
こうして振り返りながら、まだジョーカーを上映していないかと考えてしまう自分がいる。日本語版が観られる日を、今から心待ちにしている。
#JOKER2