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聴力を失った夜

一泊させてもらった民家を立ち、ヒマラヤへの道を歩き続けた。眼前に目指す道が見えているのに、一度急な下り坂を降り、川を渡り、急な上り坂を登らなくてはならない。橋があれば10分、橋がないので2時間である。何度も繰り返すとメンタルに支障をきたす。

何時間も何もない山道を歩いていると、また道を間違えたのではないか、との疑念がよぎる。しかし、数十戸の村が現れる。その繰り返し。太古から続く人々の逞しさに敬服する。毎日裸足で歩いている人の足は指が手のように広がり、土を掴む。

小さな店にたどり着き、一泊をお願いする。地階では酒を飲まないはずの高いカーストの男がトウモロコシのどぶろくを飲み、くだを巻く。私も一緒に飲んでいると、疲れもあいまって表に出て吐いてしまった。黄色い吐瀉物がまき散らされる。宿の子どもたちが私を支えて寝床に誘導し、寝かせてくれた。翌朝、私の吐瀉物はきれいになくなっている。鶏が全部食べてくれたのだった。

道中、水がなくなる。民家を訪ね、水瓶の水を汲み分けてもらう。数日が経ち、疲労は頂点に達した。数十歩進むたびに休むありさまで、何もない道で陽が落ちて夜になってしまった。踏み外して谷に落ちないように注意する。先に明かりが見えた。一縷の希望をもってよじ登る。

民家には女性がひとりいた。一泊をお願いするが、断られた。キーンと耳鳴りとともに聴力が遠のいていき、やがて聴こえなくなった。私は焦り、強引に荷物を降ろして泊めさせてくれと声を荒らげた。そうするしかなかった。自分の声も含めて、何も聴こえない。自分は聴力を失ったのだという絶望のうちに、眠りに落ちた。

翌朝、目を覚ますと耳は聴こえていた。女性が食事を用意してくれる。そして、「前夜追い出そうとしたのは、ここで死なれると困るからだった」と私に詫びた。私も非礼を詫びた。彼女から見れば、私は行き倒れて死ぬ外国人だった。

旅を始めて一週間、ずっと登りだった坂の傾斜がゆるやかになり、草原が現れた。遠い先に電柱と電線が見えた。山奥の町から伸びる電線だった。大きな喜びがあふれる。店に入るとインスタントラーメンがあり、熱い食事を掻き込んだ。

その日のうちに郡庁に着き、宿をとった。すぐにでも眠りたかったが、水を浴びることにした。着ていたTシャツが脱げない。背中の皮膚と同体化してしまっている。べりべりと皮ごとシャツを剥がす。柔らかいベッドに横になる。

こんなにも眠りにつくことが嬉しく、ありがたいと思ったことがあっただろうか。

夜、地元のパーティーに同席させてもらった。役場や空港で働く職員たちである。音楽に合わせて男も女も踊っていた。

翌日、私は飛行機でヒマラヤを旅立った。離陸すると、目線よりも上に段々畑があり、人や家畜が見える。

数年後、その町は武装集団に襲われ、多くの政府関係者が殺された。あの夜、踊った人たちも。マオイストと呼ばれる毛沢東主義者による襲撃だった。当時、若者を中心に毛沢東や金日成、スターリンが尊敬され、顔をプリントしたTシャツが売られていた。

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