感情と差別
昨日のこの記事書いた後で、
「感情こそが差別の源泉」
とかまた嫌なつぶやきを見てしまった。
人間が感情を持つ限り差別はなくならず、差別を無くしたいなら感情をなくせって…
この国のアートの「売り」はこんななのだろうか?
これ突き詰めると、人間が人間である限り悪はなくならず、悪をなくすなら人間をやめなければならない、みたいになって、一切の「善」や「正義」は偽ってことになる。
(しかし悪と同様に善も『すでに』人間社会にはあるのだから、ことさら『悪の存在』のみを強調したいと思わせるその『欲望』はなんなのだろうと思うけど、やっぱり『お金』のような生きて行くための糧を失いたくない、という『不安』なのだろうか)
「善を語るものはそれがあたかも『人間的』であるかのように言うが、現実的には『非人間』を求めているのであり、悪を許容するものこそが真の『人間』足り得るのだ」
とでも言いたいのか。つまり「何でもあり」こそが「人間」であり「真」である、と。
いわゆる厭世主義的な詭弁だろうけど、世界や常識を忌み嫌いようやく「アート」に安寧を見出したのに、そこで「PC」とか「正義」とか言われるともう我慢ならないんだろう…
無意識的には「寄らば大樹の陰」で権力に日和る、本来アートとは相容れない性向なんだけど、これがネトウヨ と現政権とは相性がいい…というか、この手の方々が「何か面白そう」と手を出せる程度のお気楽な「アート」しか育たなかったところにこの国の「悪い場所」の「悪い場所」たる所以が…
当初いわゆる「前衛」と呼ばれた無頼派か革命家気取りの芸術家たちは、例え「身振り」だとしても反権威の気概を持って社会を変えることを目論んでいただろうに、いつの間にかその「軽やかなノリ」だけがグローバル資本を後ろ盾にして大衆迎合拝金主義のネオポップとしてアートマーケットの物珍しい商品として重宝されるようになる。それが国力もなくなってイノセントの化けの皮も剥がれて「中身カラッポ」がバレた上に売れるものも売れなくなったから、さあ今度は次のトレンドだPCだSEAだコレクティブだってまた薄っぺらく様式パクり始めて、その「正義」もまた欧米のコピーだ偽物だ、日本人ならもっと日本人らしく「あいまい」で「テキトー」にやれば良いんだお金欲しいでしょう?みたいにリベラル叩きする輩もワサワサ出て来て内ゲバ起こしてもうごちゃごちゃになる。
善とか愛とか良心だとか、それらがとうとう自分に与えられることはなかったせいでただ「押し付けられた」としか思えない人は、ごく当たり前に受け取った人たちを逆恨みするようになるんだろうけど、現代アートがそういった「マイノリティ」の受け皿としてすでに資本に組み込まれてしまっているから、「社会的弱者に寄り添う」なんてお題目を掲げたサヨク的アートなんかもう共産主義みたいに目障りでしょうがない。だってせっかく手に入れた自分たちの食い扶持が失われるかも知れないわけだから。
それで「感情こそが差別だ」とか突拍子も無いことを、まるで反駁不可能な真の命題か何かみたいに抜かしてケムに巻く。とにかく自分たちアーティストが売国ネオリベがグローバル市場経由でおすそ分けしてもらっている資本の、そのさらに「おこぼれ」を失わないために自発的に権力の走狗として振る舞う。
そんな「身振り」のために現代アートが使われてしまう悲しい国…