アートとハラスメント
何か「ハラスメントを起こす可能性は誰にでもある」とか「優生思想は誰でも持っている」だから「内心には干渉できない」みたいに言って加害者に同情する人いるけど、これは実際にハラスメントを「起こす」こととは別なんじゃないだろうか?
「痴漢」についてもそうだけど日本人って妙にこの「内心」にある「可能性」を鑑みて「ルールを犯すことは誰にでもある」みたいに言うけど、これは「自分もやっちゃうかも知れないけどその時は許してくれるよね?」って保険かけてるような話で、いわば「悪」を徹底的には排除することなく薄く社会で共有すれば、欧米のように規則でがんじがらめの監視社会にしなくても相互扶助みたいにしてうまく回せるでしょう?ということなんだと思う。(それでこの国で「正しさ」がファシズムばりに嫌悪されるのではないのだろうか?)
こういうことは全員顔見知りの「村」だったらできなくはないだろうが大都市を抱えたモダンな社会では無理だと思う。ところがこういう「村的な心性」と「モダンなマインドセット」がごちゃごちゃになって醸成された「空気」が日本にはあって、それがアートの世界では最もやばい形で「内在化」しているんじゃないだろうか。
表現の次元で「可能性」の話をする理由は分かる。アートは現実世界では許されないタブーに触れて、一般人が無批判に受け入れてる日常の規範を疑う。それを作品として「可視化」する。鑑賞者はそれを通じて世界についての「別な視点」を手に入れるというシナリオ。
これに目をつけたアート産業は、かつては一枚の絵や一体の彫像が長い時間をかけてシンボル化することで形成された集合的な世界認識のプロトコルみたいなやつを、現実空間を改変する「インスタレーション」というスペクタクルを通じて観客に一気に「経験」させようと目論む。
この仕組みだけだと商業的なプロダクションに「負ける」から、ここに何とか「アート」の味付けが欲しい。そこで精神分析が都合よく慣用されて、「トラウマを作る」とか「不快に耐える」とか言う、モダンアートのナラティブが「インストール」されるわけだけど、「一枚の繪」ならまだしも長尺のビデオアートとかになるとこれはもう消費社会の「お客様」的には度が過ぎて「お腹いっぱい」「アウト」なんだと思う。それならディズニーばりのエンターテインメントでしょうってんで株式会社何とかとかテクノロジーアート集団とかが「芸術企業」として君臨する。若い世代がダダやハイレッドセンターを理解できないとか、そんなのアートの「器」(フレーム)自体が劇的に産業化してるんだから、同じ中身で満たせるはずがない。
そうなると旧来の徒弟制度みたいな美大も美術家も小規模画廊も立つ瀬がないから、そんな巨大化した資本主義アートを批判し抵抗するために、「小さな相互扶助集団=コレクティブ」を形成するようになる。
だから、そこでハラスメントが起きたから「社内規則」みたいなものを徹底すれば何とかなる、なんて出自として考えればいろんな意味で矛盾してしまうと思う。だってメインストリームから外れた「弱者を守る」というような大義で人を集めて、それをハラスメントという形で裏切るということは、謝って出直すとかいう問題ではないでしょう。
考えなければならないのは「アートの名の下に」こういったハラスメントが起きるということの意味で、ここ数十年のアートが「アートと見なしたものそのもの」の中にすでに「ハラスメントの契機」が含まれていたということで、本当の問題はこっちにあるんだと思う。
これは今に始まったことじゃないから実際はもっと根深いし、遅かれ早かれこの問題は表面化したでしょう。
つまり、この問題を解決しようと思ったら、今までそう信じられて来たアートの概念そのものを改変する必要があるということ。