「不適切な価値観を助長する」って、マジで言ってる?

どうもこんちゃっす。えせぽよ水産大臣です。

 巷では、相変わらずネットオタクとツイフェミが殴り合ってますね。記憶に新しい、というか現在進行系でバトってるのが、千葉県警の交通安全啓発動画問題についてですね。
 知らない人の為に簡単に説明すると、千葉県警が子供向けの啓発動画にVtuberの戸定梨香さんを起用したところ、「全国フェミニスト議員連盟(以下 フェミ連)」なる組織から抗議文が提出され、これを受け千葉県警が動画を削除したところ、今度はこの事態を憂慮する有志連合によって、全国フェミニスト議員連盟宛に抗議の署名活動が行われたやつです。

 なんで戸定さん使ったら駄目なん?って理由について、フェミ連は「女児を性的な対象として描いており、女性の定型化された役割に基づく偏見及び慣習を助長」「性犯罪誘発の懸念すら感じさせる」ことを理由として挙げています。

松戸警察、松戸東警察が「千葉県松戸市ご当地VTuber戸定梨香」を採用 これを受け、女性・女児を性的対象とみなす固定観念に沿った描き方を、公的機関である警察が使うのは問題と捉え、公開質問状を送付しました。 https://prtimes...

Posted by 全国フェミニスト議員連盟 on Saturday, September 4, 2021

 アニメやマンガにとどまらず、AV、映画、ビデオゲームなど、あらゆる表現物が批判、あるいは規制される時、度々主張されるのが「表現物が不適切な価値観や行動を助長する」という理論です。
 2016年、WHOは喫煙描写を含む映画やドラマを「成人向け」と分類し、未成年に鑑賞させないよう各国に勧告したことがありました。この際もWHOはその理由として、「映画の喫煙シーンは、未成年がタバコを吸い始めることを助長している」と述べています。
 また、レイプ表現などを含むAVなどの映像表現についても「女性に対する性的な暴力行為を容認する価値観を助長し、またその行動を誘発する」として、今現在議論の的になっています。
 また、暴力的な表現を含むゲームが、青少年の暴力や非行を誘発している、みたいなのもよく言われますね。

こういった「表現物が人の思考、行動に影響を与える」という考え方について「メディア効果論(影響論、とも)」という研究分野が存在します。またメディア効果論は大きく二つに大別され、「強力効果論」と「限定効果論」と言われています。今回はこの理論をご紹介しながら、「表現物が人に悪影響及ぼすってマジなん?」ってことについてお話していきます。


 まず、「強力効果論」というのは、新聞やラジオといったメディアが大きな影響力を持つようになった1930年代ごろに発生した考えで、「皮下注射モデル」、「魔法の弾丸モデル」とも言われます。この頃の欧米では上述のメディアの登場により、これまでとは比較にならない量の情報が、凄まじい速度で民衆にもたらされ、伝播するようになりました。時に新聞などのいわゆるマスメディアは流行の形成や、プロパガンダの達成に大きく寄与し、メディアのもつ影響力は絶大なものである、という認識を大衆にもたらしました。
 そうした時代背景のもと生まれたこの理論では、メディアから発信されるメッセージは、即座に「皮下注射のように」受け手の内部に浸透し、人々の行動や思考に何らかの変容を及ぼすものである、と考えられました。ファッションなどの流行の形成にしても、プロパガンダの達成にしても、大衆が同一の思念を共有するに至ったのは、メディアが持つ強力な効果により、人々が価値観や行動に対する画一的な変容をもたらされた為である、という仮説に端を発しています。つまり、「この服が今年の流行ですよ~!」というメッセージを受信した人々がその服を着るようになるから流行は生まれ、「悪の帝国ぶっ倒すべ~!」というメッセージを受信した人々がそのイデオロギーに染まっていくからプロパガンダは実現する、というわけです。
 上述したWHOやAV、ビデオゲームの例をはじめ、表現規制を推進する多くの事例で主張される「表現物が不適切な価値観を助長している」という考え方は、まさに強力効果論的な主張です。しかしながら、強力効果論は現在ではあまり支持されていません。実はそもそも、強力効果論は一度たりとも実証的研究による裏付けを取られたことがありません。つまりこの理論は、人々のこれまでの実体験に基づく、ただの「感覚」の域を脱していないのです。
 この、「メディアが人々の行動に直接的、即効的な影響をもたらす」という考え方は、アメリカのメディア研究者、社会学者であるジョセフ・クラッパーによる実証的な社会調査の積み重ねの上に1960年に提唱された「限定効果論」によって取って代わられることになることになります。
 


 「限定効果論」ではメディアが直ちにその者の行動を変容させるわけではなく、また影響を受けているように見えても、実際は異なる外的な要因が働いているとされます。その要因の一つに、「選択性メカニズム」があります。選択性メカニズムとは、人はメディアを受信する際、自分の思想や傾向に依拠して情報を選択する、という考えです。
 このメカニズムの説明には、度々「火薬と引き金」の例えが用いられます。個人の思想や傾向が「火薬」であり、メディアや表現物などが「引き金」を引き、「銃が発射される」という結果を導きます。重要なのはメディアや表現物は単なるきっかけにすぎず、そもそも「火薬」が装填されていなければ銃は発射されない、ということ。つまり、メディアによって思想や傾向が生じているのではなく、もともとそういった思想や傾向を持っていた者だけが、そういったメディアに強く反応する、というわけです。
 一見この理論も、「表現物によって不適切な行動を引き起こされている」と述べられているように見えます。しかし、提唱者であるクラッパーはこのように述べています。

火薬が充填されていれば、メディアが引金を引かなくても、いずれ別の要因が引金を引く。だから、メディアを除去することは何の解決にもならない。そればかりか、なぜ火薬が充填されたのかという真の問題を覆い隠す「気休め」に過ぎない

ジョセフ・クラッパー(1966)『マス・コミュニケーションの効果』NHK放送学研究室訳、日本放送出版協会


レイプAVを題材に、この例をもう一度見ていきましょう。まず、「レイプしたい、レイプが好きだ」という個人の思考や価値観が「火薬」です。そして、レイプAVが「引き金」となり、強姦という形で「銃」が発射される、とします。
 例えば強姦魔の自宅から大量のレイプAVが発見されたとすると、人々は「レイプAVに感化されて犯行に及んだ」という強力効果論的な考えに陥りがちです。しかし限定効果論では異なる説明を行います。この事例では、レイプAVは「引き金」になりうる要素の一つに過ぎず、最終的に何によって引き金が引かれ、強姦行為が導かれたのかは断定できない。そもそも、「レイプしたい」という行動原理がその人になければ、レイプAVは何の行動も導けない。であるなら、「引き金」を問題視するよりもまず、「レイプしたい」という衝動が何によってもたらされたかをより注視しなくてはならない。というわけです。


 強力効果論的な論調では、表現物と現実の行動に因果関係を認めようとします。「レイプAVを見ていた『から』強姦に及んだ」「暴力的なゲームをプレイしていた『から』傷害事件を起こした」といった感じですね。
 しかし限定効果論では以上のような表現物と行動の関係には直接的な因果関係は存在せず、見えているのは擬似的な相関関係に過ぎない、と説明します。
 またこれを裏付けるような、表現と現実の行動の因果関係を否定する研究が多く報告されています。例えば、いわゆる「ロリエロマンガ」と現実の児童に対する性的虐待行為の因果関係を否定する報告が、2010年デンマークにて、コペンハーゲン大学病院所属の研究機関によって報告されています[Psykiatrisk Center København, Sexologisk Klinik (2010) Fiktiv børnepornografi (udtalelse fra Sexologisk Klinik og Visitations- og Behandlingsnetværket]。デンマークは1969年に、世界で初めてわいせつ表現規制法を排除した国としても知られていますね。
 アメリカでも、ポルノグラフィと性犯罪の因果関係を否定する「猥褻とポルノに関する大統領諮問委員会報告書」というレポートが1970年に報告されています[Commission on Obscenity and Pornography (1970) The Report of the Commission on Obscenity and Pornography]。この報告では逆にポルノグラフィの流通が実際の強姦事件の発生数の抑制をもたらしていることが示され、規制強化より、むしろ同意している成人への性表現物の販売を合法化するなど、全面的に規制の緩和を推奨するとの結論が出されています。以上の二つ、どちらも政府による要請を受け実施された、れっきとした科学的調査です。
 とまあこんな感じで、「表現物が不適切な価値観や行動を助長する」という理論は、科学的に明確に否定されているってわけです。


 ここまでのお話に準拠して千葉県警の動画問題に立ち戻ると、そもそも「女児を性的な対象として描いた」表現物が、「女性の定型化された役割に基づく偏見及び慣習を助長」するという科学的根拠は無い、ということです。

 ただし。別に僕は彼女たちの主張を全面的に否定したいわけではありません。確かに、彼女たちにとって「性的に思われる」コンテンツを、警察などといった公共的な機関が運用する是非については、彼女たちの「見なくて済む権利」という幸福追求権を侵犯しているという見方もできます。
 アニメ、マンガイラストを「性差別的である」とする彼女たちの主張はさておき、現在のところはアニメ、マンガイラストを採用した機関や企業に対する抗議活動の域に収まっている、というのが実際のところでしょう。彼女らの主張をどう捉え、どう動くかはあくまで機関や企業の努力や判断ですから、この抗議活動自体を全面的に否定することは難しいと思います。

 でもでも。それでもここまで大きな論争を巻き起こしているのは、やはり彼女たちの思想的な主張が、やがて政治的な要求に発展していくことへの懸念があるためでしょう。懸念、というかこうした市民運動が、やがて『焚書』に発展してきたことは歴史が証明しています。日本における1955年の『悪書追放運動』といい、1989年の『有害コミック騒動』といい、いつだって始まりは民間人による市民活動でした。そして行き着くはいつも「法規制」でした。もし彼女たちの活動がこのままエスカレートし、彼女たちの主張が立法の領域に踏み込んでくるというのであれば、彼女たちの主張は今一度、精査される必要があるはずです。

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