巫女姫ノーラの婚姻
今日も満足の行く神布を納める事が出来た。
マハムートはいつも退出するこの道すがら、ほっとして、じんわりと誇らしさを噛み締める。
最高の神布を捧げている自信はあるし、一度として瑕瑾を指摘された事などないのだけれど、それでも検分担当神官の
ああ、素晴らしい出来ですね
の賞賛は純粋に嬉しい。
特に今回はひとしおだ。
マハムートは代々続いた神布製作者だ。
丁寧に丁寧に育てた麻を、また心を込めて薄く柔らかな布に仕上げて神殿に納める。
納められた神布は、神殿内で祭礼や神事のための衣装として仕立てられ、神官と巫女に纏 われる。
神布製作者は他にも沢山居るけれど、
中でもマハムートの仕上げた神布は、羽のように軽く柔らかで肌触りも極上と、主に巫女姫の御料とされているらしい。
もちろん、マハムートが納める神布は四季毎に欠かされる事はないので、他の巫女にも纏われているのだそうだけれど。
らしい、と言うのは、巫女姫は年に数回の大祭の時でも無ければお出ましにならないし、遠くから拝するだけでは果たして自分の納めた神布を纏って下さっているのかどうか確かめるのは困難だからだ。
とは言え、そもそもマハムートは職人気質と言えば聞こえは良いが、全く以って世情に疎かった。製作に夢中になっていて、そう言えば祭礼は数日前だった、と言う事が通常であるので、実は巫女姫を実際には見た事がないのだけれどー。
なのだけれど、神官やシャレム様が嘘を吐くとも思えないので、きっと巫女姫がお召しになっていると言うのは本当なのだろう。
何よりシャレム様が
あなたの神布は本当に心地良いの
と言ってくれたのだ。
マハムートにとっては巫女姫よりも、シャレム様が気に入って下さっている、と思うだけで、たまらなく嬉しく誇らしい。
捧げる時には必ず思い出すその柔らかい声。
知らず知らずのうちに口元が綻んで、そして捧げ物のこの日2つ目の喜びの場所が目に入るや、足が自然早まった。
神殿の中程に有る庭園。
背の高い樹木こそ無いものの、季節の草木が咲き乱れ、風が流れ、小川が流れているその場所は、いつも光が溢れていて溜め息がもれてしまう。
美しく繊細に整えられているのだと、風雅を解さないと自覚するマハムートですら感じられるそこは、巫女や神官の憩いの場所でもあるのだという。
その場所で、捧げ物の後にシャレム様と言葉を交わす様になって、もう随分になる。
話す内容はいつもたわいの無い話―少なくともマハムートはそう思っている―なのだけれど、シャレム様はいつもその花の顔を輝かせて神布の製作の過程やマハムートのその時の思い等に聞き入り、時に問い掛けて来る。
好奇心旺盛な風なのに、マハムートの訥々とした話し振りも気にならぬ様で、急かすこともなくこちらを覗き込んで来る瞳は無邪気の一言に尽きる。
その瞳を愛しいと、愛おしんでいるのだと自覚したのは、出会ってから1年経つや経たぬやの頃だった。
初めてまみえたのは、神布を捧げ終えたその時、検分担当の神官から
神布をどの様に製作しているのか聞かせて欲しい、と言われた事による。
製作方法など特に変わった所はないと不思議がるマハムートに、巫女姫の御料の製作者の口から、手順や思いを直接聞く事に意味があるのだと、これまたマハムートには良く分からない理由を述べられた。
その時初めて自分の捧げている神布が巫女姫の御料となっているのだと知ったのだけれど、余りの驚きにぽかんとしてしまった記憶だけがある。
両親から厳しく伝えられた手法を守って、誠実に製作している自信はあったが、何せマハムートは神布製作者としてはまだまだ若手である。それが巫女姫の御料として使われているなどと。
神官の言う意味など良く分からないまま頷いてしまい、伝えて欲しいと言われたその人こそが、まだ頬のラインに幼さの残るシャレム様だった。
こちらでお話し下さい、とシャレム様の待つ庭園で、検品担当の神官に引き会わされた。
失礼の無い様に、と下がりしなに穏やかながら言い添えられたところから、シャレム様が高位の巫女なのだとは知れたが、ごく幼い頃から神殿に住まう巫女らしく、その時で恐らく十四、五歳だったのではないかと思う。
確認した事はないけれど。
何をどう話せば良いのか、固まってしまっているマハムートに、シャレム様はあの屈託のない輝く様な笑顔で無邪気に笑い掛けて来た。
その場にそのまま草の絨毯―と言えば聞こえは良いが地べただ―に座り込まれたのにも驚いたが、横に座れと言われたのにはもっと驚いた。
無邪気に自身の横をとんとん、と叩いて促して来るのに、おっかなびっくり少し距離を置いて腰を下ろした。
麻をどうやって育てているのか、天候で困る事は無いのか、いつどうやって収穫するのか、それを布にするには、苦労した所はー
マハムートにとってはごく当たり前の内容を不思議がり、楽しげに聞き出すシャレム様に、気づけば問われるがまま、こんなに喋ったのは初めてだと思う程語っていた。
そろそろお時間ですよ、と先程の神官が声を掛けて来たのに、こっそり見えない角度でちょっぴり膨れっ面をしたのが何とも可愛らしくて、高位の巫女でもこんな顔をするのかと、衝撃を受けたのも今となっては懐かしい。
なんと言うかシャレム様は自身の感情に正直で、表情が豊かなのだった。
神官達には一応その顔をあからさまにしない気遣いをしている様だったが、取り繕い切れない所が何とも可愛らしくて、マハムートは知らず笑んでいた。
それに気付いたシャレム様はこれまたこっそり片目を瞑って見せて、
初めての邂逅は終わりとなったのだった。
そう、初めての邂逅は。
それから神布を納める四季ごとに、シャレム様に話を求められるとは、その時は思いもしなかった。
最初の邂逅の後しばらくは、なんと珍しい経験をしたものかと驚き、自分の神布を心から喜んで貰えているのだと言う喜びが、じんわりと身を浸していくのを、ただ享受していた。
それがいつの間にか、会えるのを心待ちにする様になって。
笑顔を見るだけで幸せが胸を浸す様になって。
巫女姫ではなくシャレム様に自分が織り上げた神布を身に着けて欲しくて、少しでも多く納められる様に努めて。
精一杯の真心を、それまで以上に込めて製作した。
そのマハムートの顔を見た妹が、
お兄ちゃんにもやっと大事な人が出来たのね、
と嬉しそうに言うまで、自分の気持ちに気付かなかったのだから、全く鈍感と言う外ない。
だが気付いて見れば、何故今まで気付かなかったのか不思議な程、それはしっくりとマハムートの心の中心に落ち着いていた。
妹は両親亡き後、1人で神布を製作するマハムートを気にかけて、早い結婚をした今もしょっちゅう顔を出してくれている。
飾らない太陽の様な性質の彼女は、根掘り葉掘りシャレム様の事を聞きたがったが、何せ口下手のマハムートだ。ぽつぽつとしか語れない。
それでも、自分の遅い初恋を嬉しそうに聞いてくれる妹と言う存在に、心から感謝したものだった。
マハムートは両親から家業である神布製作を受け継いだ。有り難い事に一定以上の評価も得ている。
けれども、実は子供の頃から心惹かれるものは、巫女や神官の身に纏われる神布の製作ではなく、ワインを醸す事だった。
自家の麻畑のごく近くにあるブドウ園。そこで光を浴びて輝く果実がやがてワインとなり、人々の身体を巡る物となる、その流れをとても美しいとずっと感じていた。
自分もその流れに身を置きたいと、思わずにはいられなかった。
ふとした時に子供の頃からの望みに思いを馳せてしまうのはどうしようも無く、実はシャレム様に出会った頃には溜息で誤魔化す事も増えていた。
シャレム様と話しながらそれをうっかり口にしてしまった時は、自分でも驚きの余り固まってしまった程だった。
誰にも、両親にも妹にも言った事など無いのに。
固まってしまったマハムートを気にする事もなく、
じゃあいつかマハムートの作ったワインが飲めるのね。
と満面の笑みで笑い掛けてくれたシャレム様に、マハムートは、
はい必ず。
と、気付けば満面の笑みで答えていた。
神布製作は祭祀のための物だから、止めるのは困難だ。
だが幸いなことに妹の夫が、神布製作に興味を持っている。
彼にマハムートの麻畑を引き継いで貰えたら、代替わりとしては通るだろう。
何より、彼は麻に語り掛けるマハムートを自然に受け入れている。
麻への感謝と愛情こそが技術を越えて行くのだと、マハムートの神布が素晴らしいのはそこなのだと、シャレム様が教えてくれた。
そして、製作者が語り掛けるほどに神布の出来が良いのではないかと、神殿を挙げて検証の段階に入り出したという。もちろん、事前に打診を受けたマハムートは、それを喜んで承諾した。
その大切と思われる所を、きっと義弟は自然に行える。妹も神布製作の技術については両親から十二分に受け継いでいるし、妹夫婦はきっと素晴らしい神布製作者になる。
それからのマハムートの行動は早かった。
だってシャレム様に約束したのだ。
必ずと。
それから数年、妹夫婦は素晴らしい神布を製作する様になった。まさに輝く様な神布だと思う。
数年前から妹夫婦と共に神布を製作している事は神殿に報告済みであったし、納品量が増えたので検品担当の神官も好意的だった。
マハムートが神布の製作に携わるのは、今回が最後だ。今回納品した神布は妹夫婦が全て製作し、マハムートは最後の確認をしただけだ。
そして検品担当神官は
今回も素晴らしい出来ですね。
と評価してくれた。
納品量は妹夫婦の製作量に合わせて調整していたので、マハムートが退いても変化もない。
代替わりは実にスムーズに進んだのだ。
ワイン醸造者となったら私の妻になって下さいますか
数年前、固く決意して伝えた言葉に、シャレム様は目を見開いて、不思議そうに問うて来た。
なったら、なの?
その言葉にマハムートは固まった。
マハムートがシャレム様に季節ごととは言え会えているのは、神布製作者だからだ。引退すれば、巫女であるシャレム様にはもう会えなくなるだろう。
それだけは嫌だった。
どうしたら良いのか悩んだ末、マハムートはまだ恋を告げてもいないと言うのに、求婚を決意した。
不思議なほど、断られるかもしれない、とは思わなかった。
巫女が引退して結婚するのは珍しくはない。
けれどもいきなりの求婚はさすがにまずかったかと、口にした直後に気付いて顔色をなくしたのだが、シャレム様は目を瞠って、そして花が咲くように笑ってくれた。
妹夫婦に神布製作を引き継いで貰ったら、マハムートは親交のある近くの醸造所に弟子入りする予定になっていた。マハムートの人となりを良く知るあちらは、幸い繁忙期が重ならなかった事もあり、引継ぎ中も少しずつ手伝いをしながら覚える事を提案してくれた。
まだ数日手伝っただけだが、筋が良いと褒めてくれている。とは言っても、一人前になるのに数年は掛かるだろう。
マハムートの思いを良く知る妹夫婦も、醸造者として一人前になるまでは、神布の納品をマハムートが行えば良いと言ってくれている。ここは有り難く甘えようと思っていたのだ。
今の今までマハムートはそう思っていた。
けれど。
シャレム様はこんな言葉でマハムートを驚かせるのだ。
二人でならきっとどんな時でも幸せね。
そうだ。二人で居られるなら。
それはじわじわと浸透して、マハムートの頬に、少しずつ笑みを上らせる。
一人前になったらなんて、自分は何を考えていたのだろう。離れたくないからと求婚を決めたと言うのに。待つ必要がどこに有るというのだろう。
はい。
マハムートは満面の笑みで答え。
出会ってから初めてシャレム様の手を、そっとそっと握ったのだった。
私も引退する準備を整えるわね。
シャレム様が柔らかく微笑んで口にした言葉に。
幸せ過ぎて、死んでしまいそうだと思った。
巫女の引退の準備がどれ程掛かるものなのか、マハムートには分からない。けれどもそれなりに色々有るものだった様で、もうすぐ準備が終わるわ、と聞かされたのは、マハムートが求婚して数年。奇しくもマハムートが妹夫婦に全てを引き継げたと思えた時と同じくしていた。
光が溢れる庭園の中でいつもの様に、マハムートを待っていてくれる人影。
ああ、シャレム様だ。
初めて出会った時はまだ少女だった。すっかり大人の女性になって、でも変わらない無邪気な微笑み。愛おしい愛おしい微笑み。
これからはずっと一緒に生きていける。
駆け寄り、手を重ねる。
シャレム様。
口に出来たのはただそれだけで。
応えは、輝く様な微笑みだった。
シャレムが巫女姫だったと知ってマハムートが絶句するのも
マハムートと共に帰って来たシャレムを見た妹夫婦が卒倒するのも
まだ少し先の事。
婚姻によって引退した最初の巫女姫の物語、と記録されるのは、更に先の事である。
<FIN>
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