猫の神様
猫は子猫の時、行き倒れた。
いつも温かくて大きな母猫とは、いつの間にかはぐれてしまっていた。
自分で餌を獲る方法などまだ良く知らない猫は、ついにもう一歩も歩けなくなって。
冷たい土の感触を全身で感じながら、寒いなぁ、とぼんやり薄れていく意識で思っていた。
冷たくなって行く自分の体に触れた何かの、久しぶりの温かさと大きさに、なんだか安心したのがその時の最後の記憶だ。
目が覚めたら、暖かい物にくるまれていた。母猫とは違うがなんだか安心する。
「おっ。目が覚めたかい?」
耳に心地良い、低めの闊達な声だったが、猫はビクリと身を固くした。
人の声、だろうか。人は怖い。言葉も通じない。母猫も、人に近付いてはいけないと言っていた。
逃げないと。でも、体はろくに動かない。
泣きそうになってぶるぶる震えていると
「ああ、大丈夫。心配しなくていい。」
そう言ってそっと撫でてくる手の優しさに、猫はずっと母猫とはぐれてから怖くて仕方がなかったのを思い出した。
思い出して、母猫とちっとも似ていないのに、母猫の様な温かさに安心して、また眠りに落ちた。
それから、猫はその屋敷の猫になった。
温かかったのは、寝床と言うらしい。
すっかり冷えていた猫のために、温石と言う物が寝床の側で優しく温めてくれていた。
寝床と温石『二人』の、ゆっくりお休み、と言う優しい声が、すっかり猫の警戒心をどこかへやってしまった。
行き倒れていた猫を助けてくれたのは、剣の神様らしい。
猫の言葉が分かるし、他の色んな物とも楽しそうにお話ししているけれど、お屋敷の人はみんな神様が見えないし、声も聞こえていないみたいだ。
神様が何かは良く分からない。お屋敷にいる色んな物が、あの方は剣の神様なんだよと猫に言うから、神様って言うんだな、と思っている。
普通は生まれてすぐの、猫みたいな子猫には神様やみんなが見えないし触れないらしい。猫は死に掛けたから見える様になったんだろうって言われたけれど、ふうん、と思っただけだった。
そう言えば、お屋敷の一角では良く耳に響く大きな音が鳴っていた。
人が新しい剣を作っている音、なんだそうだ。
神様は剣の神様だって言ってたから、神様は人が作っているの?と聞いたら、部屋にいた絵も壷も何を言うんだと血相を変え、当の神様は声を上げて笑っていた。
絵と壷が色々言っていたけど、難しくて全然分からなかった。
神様は、二人の説明に眉を下げている猫の頭を指で撫でて、「何であっても大した違いはないさ。」と笑ってくれたので、猫は神様がますます大好きになった。
元気になったからと、いきなり行水させられた時はびっくりし過ぎて、神様を思いっきり引っ掻いてしまったのも、今となっては良い思い出だ。
季節が一巡して、猫がすっかり大人になった頃、神様は時々変な顔をする様になった。
そう、あれだ。あの顔は、きっと悲しそうとか、寂しそう、とか言う奴だ。
猫はこのお屋敷に来てからずっと楽しい。だから神様がそんな顔をしていると気になってしまう。
座って庭をみている神様の膝先を、たすたす、と前足で触ると、神様はちょっと目を見開いて猫を膝に乗せてくれた。
「やあ、すまんなぁ、心配を掛けてしまったか。」
猫はじっと神様の目を見上げる。
神様は猫を撫でながら言った。
「実はなぁ、もうすぐここから出る事になりそうなんだ。」
出る?出るってどう言う事?
きょとり、と見つめる猫に神様はあのちょっと寂しそうな顔をして
「ここから居なくなる。もう猫やみんなと会えなくなるんだ。」
天地がひっくり返る程驚いた。ひっくり返ったのを見た事はないから分からないけど、こう言う時はこんは風に言うんだと猫は知っている。
ど、どうして⁈
「俺が剣だって知ってるだろう?」
もちろんだ。もう猫は神様が素晴らしく美しい剣だと知っている。人が作った物だけど、あまりに素晴らしい物には神様の様な魂が宿るのだ。
「俺を欲しいと言う人間が現れてな。そいつの元に行く事になりそうなんだ。そうしたら、もうここには戻って来れなくなるだろう。」
いやだ!神様が居なくなるなんて!
死にかけていた猫を拾ったのは、助けてくれたのは神様だ。だからずっと神様と一緒にいるんだって猫は決めている。
でも、神様はぎゅうぎゅうとしがみ付く猫を優しく撫でてくれるけど、行かないとは言ってくれない。
神様は剣だ。人が持つために生まれた。持ち主が現れたら行ってしまう。そして猫は一緒にそこには連れて行って貰えない。だって人は神様と猫が仲良しだなんて知らない。気付かない。神様だけが、ここから居なくなってしまう。
ぼろぼろと涙をこぼす猫を、神様はいつまでも撫でてくれていた。
この屋敷のみんなは神様が大好きだから、神様を連れて行こうとしてるそいつを脅かしてしまおう、なんて言う奴も居たけれど、神様にケチが付くのは本末転倒だって、結局実現しなかった。
猫は。
猫も、そいつが神様を見に来た時、バリバリ引っ掻いてやろうと思っていたけれど、あんまり熱心に神様の本体を見ていたから、神様を素晴らしいと思っているのが分かってしまったから、何も出来なかった。
神様は、息を詰めて自分の本体を見つめる男の様子を、男の前に座ってじっと見ていた。
神様と男のその様子は、まるで人同士がそうしている様で、ああ、これが人の言う縁って奴なのかと猫は悲しくなってしまった。
しょんぼりと木陰にうずくまっていると、いつの間にか側に来た神様が猫を撫でてくれた。猫はますます悲しくなって、細く細く鳴いて、頭を神様にすり寄せた。
なぜかあの男が不思議そうにこちらを見ていて、うっかり睨んでしまったけれど、これくらい良いだろう。
だってあの男は、猫の神様を連れて行ってしまうんだから。
男は二度やって来た。
神様を熱心に見ていたあの時と、受け取りに来ている今だ。
剣の受け渡しと言うものは、普通は刀工が買主の屋敷まで持って行くらしいけど、男は自分で受け取りに来ると言って譲らなかったと、屋敷の人が不思議そうに話していた。
今日の神様はいつもより立派な着物を着て、みんなにお別れの挨拶をしてくれている。みんな泣いていて、ご武運を、とか言っている。
猫はそんな事言えない。
「ひどい顔だなぁ。」
神様は猫を抱き上げてくれた。猫はこれが最後なんだと思うともう堪らなくなって、ぼろぼろ泣いていた。
真新しい着物の匂いが、神様が猫の神様でなくなったみたいで嫌だ。
ああ、でももしかしたら神様の懐に忍び込めるんじゃないかな。そうしたら一緒に付いていけるんじゃないかな。
「その猫か。」
「ああ。」
あの、にっくき男が、神様に抱き上げられている猫の頭を撫でてくる。あまりにびっくりして、反射的に全身の毛を逆立ててシャーッと言ってやったら、男は慌てて手を引っ込めた。
「おいおい、そりゃないだろー。」
情け無い顔で眉を下げる男に、神様はくくくと笑ってる。
みんなも口々に、気持ちは分かるが、と慰めたり猫を撫でてくれたりするけど、嫌なものは嫌だ。
「すごいな。」
男が感心した様に、みんなを見渡した。
ぴし、と猫もみんなも固まった。
…え?
人には、みんなも神様も見えないはずなのに。
「だろう?」
神様が当然の様に男に語り掛けていて、みんなびっくりして。
え?え?私どもが見えてるんで?
「ああ、見えてるし、聞こえてるぞ。」
大騒ぎになった。
猫は、神様と一緒に行く事になった。表向きは男の猫になった、という事らしい。
男の屋敷は猫がまだ探検し切れていない位大きくて、色んな物が猫とも遊んでくれる。
神様は守り神として大切にされていて、猫はとても満足している。
猫は、その神様の守りとして、あの屋敷から貰われたのらしい。
男は時々、猫を間に挟んで神様と話したりもする。猫に話しかけている様に見えるから、都合が良いんだそうだ。
他の人には神様は見えないから仕方がないし、神様が男と話すのを楽しんでいるみたいだから、まあ許してやろうと思っている。
「それにしてもあの時は驚いた。」
「そうかい。」
今日も二人はゆっくりと話している。
「まさか、本当に絵や壷や温石まで喋るとは思わなかったぞ。」
「そうか。」
「お前にしてやられた。」
「良かっただろう?」
「…まあな。」
猫を可愛がるのが慣れて来た男は、ちょいちょい、と猫の耳の後ろを撫でるのが最近のお気に入りらしい。
「世界が変わった。」
男の清々しい様な言い振りに、猫は嬉しくなる。神様が嬉しそうにしているからだ。
神様は黙って笑っている。
男は今は神様しか見えないし声も聞こえないらしい。
そもそも、はっきり見えたのも神様が初めてだったんだそうだ。てっきり人だと思っていたら、剣だと言われて腰を抜かしたと言っていた。
「みな、人と変わらないのだなぁ。」
「全く同じと言う訳ではないがな。」
「いやいや、俺には見分けがつかん。あれらが猫を見送る時など、なんと愛情深いのかと感心したぞ。」
みなあの時、良かったな、元気でな、と猫を見送ってくれた。
猫も嬉しくて嬉しくて、そしてもう会えないだろうみんなを思うとやっぱり寂しくて、涙が止まらなかった。
沢山ありがとうを言った。
「俺はな、あらゆる物の声を聞く事は出来ないが、あらゆる物に魂がある事を忘れないでいようと思う。」
「ああ。」
神様の手の温かさと陽だまりの心地良さに、猫はあくびをしてうとうとと微睡みだす。
ゆっくりお休み、と寝床と温石の声が聞こえる気がする。
猫はずっと神様と一緒だ。
〈FIN〉
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