なぜLGBTではなく”SOGI”なのか?(番外編)
「なぜLGBTではなく”SOGI”なのか?」は①〜④までに渡り説明していきました。
今回はその番外編です。
”SOGI”は、現在意味の拡張により”SOGIE”とも言われています。
読み方は”そじ”で構いません。
SOGI”E”
ここでの”E”は”Expression”つまり、”表現”です。
”SOGIE”は”Sexual Orientation & Gender Identity and Expression”
日本語で”性的指向及び性同一性、その表現”と言います。
性同一性と性表現が混合されてしまう場合が多いのですが、意味はここまで違います。例をいくつか挙げます。
”ボクっ娘”はご存知でしょうか。
体や心の性は女性なのですが一人称は”僕”である女性のことです。
”僕”は、元々男性の召使いのことを指す言葉でしたが、現在では主に男性が扱う一人称の言葉として扱われています。
また、女性歌手が歌詞での人称が”僕”であるときもあります。
”AKB48”さんを筆頭に、秋元康さんの歌詞や、秋元康さんがプロデュースされるアイドルグループも、歌詞においての人称は”僕”であることが多いです。
これは、歌われる方と歌詞の人称の性別をあえて逆にすることによって、その違和感によって、よりメッセージ性の高い歌になるという戦略でもあります。
クリス松村さんやマツコ・デラックスさんも
体の性は男性、心の性は女性、つまり”オネエ”と呼ばれる方達ですが、表現はそれぞれ違います。
クリス松村さんは主にパンツを着用しているイメージなのに対し、マツコ・デラックスさんは、ワンピースをよく着用しているイメージですよね。
普段、女性の中でも、パンツを好んで着用する方や、ワンピースといったスカート系統を好んで着用する方まで、様々です。
女性において、衣類による表現は非常に多様なので、パンツだから心の性は男性、スカートだから女性、というわけではありません。
また、ボーイッシュ、フェミニン、男勝り、女々しい、などといった、性格や心情を表す言葉に性別が入っている場合がありますが、その性格や心情に該当される方と、心の性は別問題です。
ここでいう”表現”は、表現自体に性別が存在しているわけではなく、表現において、性的指向、性同一性が必ずしも関与しているわけでなはい、ということを示しています。
りゅうちぇるさんはストレートと呼ばれる方なのですが、衣類やメイク、口調といった表現は、個性的な表現ですね。
学生時代は、自身の思う自己表現と、周りの目との葛藤があったようです。
LGBTに間違われたり、周りからいじられたり...
「人と表現が違う。」
それでもりゅうちぇるさんは自身の表現を一貫し、芸能界に入り、多くの支持を得ました。
表現も人それぞれ
日本には、憲法で定められた”自由権”の中に、”表現の自由”の記載がされています。
表現の自由とは、
「すべての見解を検閲されたり規制されることもなく表明する権利。 外部に向かって思想・意見・主張・感情などを表現したり、発表する自由。 個人におけるそうした自由だけでなく、報道・出版・放送・映画の(組織による)自由などを含む。」
(報道や出版の自由については最近大きな議論がありますが)
”周りの意見”や”自身の性的指向や、性同一性”から、”こうあるべき”ではなく、
”ある一人の私”として”こうありたい”と思える姿こそが、本当の表現の自由なのではないでしょうか。
”女性での職場の働き方”として、パンプスやスカートの着用の義務を撤廃して欲しい、という主張があります。
私個人の意見としては”賛成”です。
”職場”での性表現においては、”職場”では、フォーマルな場であるため、衣服や髪型など、形式化されやすい為、ここに表現の自由を関与しすぎてしまうと、秩序が乱れてしまう場合もあります。
そして主語も変わります。”私個人”ではなく、”組織の中の1一人”となります。
”秩序”と”自由”
”秩序”と”自由”ではバランスも必要です。
誰かの自由のために、他の誰かが犠牲になることも許されないことです。
ですが、
”女性での職場の働き方”として主張をしていることは、果たして秩序を乱しているのでしょうか。
”女性での職場の働き方”として主張をしていることは、果たして誰かを傷つけているのでしょうか。
特にパンプスの長時間着用においては、出血や外反母趾といった足の健康被害もあり、さらに習慣化すると、骨盤にも影響が出てしまいます。
むしろ、”女性での職場の働き方”を主張している方達が、自身の秩序を乱され、傷付けられているのです。
私としては、取引先に向かうのも、ローファーといった、せめてヒールに負担をかけない靴でもいいと思います。
『20年後、誰といるか』の記事にも記しました、
「”こうあるべき”と”こうありたい”」
この記事について補足しますと、”こうあるべき”と”こうありたい”はどちらも必要です。
”こうあるべき”と”こうありたい”だけに限らず、対立する複数の意見が存在し、どちらかに決断をしなければならない場合、
必要性の高低、に着目しがちですが、ではなく、あらゆる側面で見た場合、ケースバイケースです。
そして、その複数の意見は、どちらも同等の必要性を秘めています。
ある一方の側面で見た場合、どちらの必要性に「価値」を置くか、だけの違いなのです。
この場合、私は、”会社の統一性”と”女性での職場の働き方”との対立では、”女性の働き方”の改善に価値を置きます。
”会社の統一性”は、各事業所の理念や、部署における方向性で発揮す”べき”であり、女性での職場の働き方を”統一”する必要性には価値を置けない、と考えています。
...
話がそれてしまいましたが、表現は人それぞれであり、性的指向や性同一性、で縛られることもありません。
また、何をどの場面で表現の自由とするべきかを、今一度考えて欲しい。
というのが今回の趣旨でした。