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依存症がわからない人とわからせたい人たちの争い

こんにちはなのだ。

ここ最近、依存症界隈は大変なことになっているのだ。というのも、野球の大谷翔平選手の通訳である水原一平氏が大谷選手の口座から24億5000万円もの金をギャンブルに溶かしたことで騒ぎになっていて水原氏に対するバッシングが続き、そこにギャンブル依存症界隈が猛反発したのだ。

そして、ギャンブル依存症当事者の田中紀子さんが、アルピニストの野口健氏の水原氏に対する「万死に値する」発言の撤回を迫って文書を送付する騒動に至ったのだ。
そしてギャンブル依存症界隈は、野口氏の発言を削除させることに成功"してしまった"のだ。

野口氏は決して依存症を理解したわけではないと思うのだ。依存症は当事者の我々ですら理解し難い病気であり、それ故に治療には人生を懸ける必要があるのだ。
今回は、依存症という病気がいかに理解し難いものかについて書いていくのだ。


依存症は医学では解明できない

まず、依存症という病気そして治療法は医学で理解できるものではないことが、基本テキストに書かれているのだ。

 この日本語版でも、第一部はすべて、できる限り原文に忠実に翻訳するよう心がけた。回復のプログラムは、理論的な研究によって理解できるものではなかった。訳者自身アルコール中毒者であり、このプログラムによって回復の道を歩みながら、何年もかけて理解しえたものであった。日本語としては流麗というわけにはいかなかったが、プログラムの意味はなんとか伝えられるものになったと考えている。

アルコホーリクス・アノニマス P xi(11)-xii(12)

関係各位
 私は長年、アルコホリズムの治療を専門に手がけてきた者です。
 一九三四年の後半のこと、私はある患者を担当しました。彼はかつては収入のよい、非常に有能な実業家でしたが、どうにも見込みなしと見放すほかないようなアルコホーリクでした。
 三度目の治療中でした。彼は回復の可能性に向けた手段としてある方法を思いついたのです。彼は自分のリハビリテーションの一環として、自分が得た考えを他のアルコホーリクに説明し始め、彼らも自分と同じようにすれば何とかなることを強調したのです。これがいま急速に広まっているアルコホーリクとその家族たちの共同体の土台になりました。この患者と、そして百人あまりのアルコホーリクがいま回復していると思われます。
 私自身、これ以外のあらゆる方法が無惨にも失敗に終わっているケースを、いやというほど見てきています。
 事実は、医学的に極めて重要であると思われます。というのもこのグループの急速な広まりが内に秘めている途方もない可能性は、アルコホリズムの歴史を画期的に塗り替え得るものだからです。彼らは、同じ状況にある他の幾万もの人たちに、回復の手段を提供できるのではないかと思われます。
 彼らが自分自身について語っていることは、全面的に信頼できます。

敬具
医学博士 ウィリアム・シルクワース

アルコホーリクス・アノニマス P xxxi(31)-xxxii(32)

依存症治療プログラムは、医者が匙を投げたところからその歴史が始まって現在に至るのだ。つまり精神医学の完全敗北がその土台にあるのだ。シルクワース博士は信じられないが認めるしかないアルコホーリクの回復の事例の数々を見て、当事者たちの共同体を見守るようになったのだ。これがAA(アルコホーリクス・アノニマス)という自助グループなのだ。

シルクワース博士は、全米で最も由緒ある病院の医長を何年も務めてきた(アルコホーリクス・アノニマス P xxxiii(33))経緯を持っているのだ。その博士ですら言語化に苦しむほどの効果を、見込みなしと診断された当事者たちの回復は実績として出しているのだ。全米の権威はここに医学の無力さを痛感せざるを得ず、この共同体の広がりを祈るばかりであると意見を綴っているのだ。

医学でどうにもならないのなら、何を以て回復できるというのか。その答えは簡単なのだ。医学は人間にできる最善を尽くした所為なのだ。それでどうにもならないなら、人間以上の力でしかどうにもできない、つまり神頼みするしかないのだ。

まさに依存症治療プログラムは、神によって病気を取り除いて頂くプログラムなのだ。神に祈ってそれを叶えて頂くには自分の側が整っていないといけない、つまり神とのコミュニケーションを取るために自分を変える必要があり、その道標として組まれたのが12ステッププログラムなのだ。

だが現実は、精神疾患の治療は医学に頼りっきりなのが実態なのだ。精神医学界の権威が持ち上げられ、多くの人がそればかりに傾斜して縋っているのだ。医学がとうの昔に敗北していることは知られていないのだ。

依存症からの回復にはまず「底つき」しなければならないのと同じように、社会の依存症に対する理解も、社会全体が教育・道徳・医学・科学の最先端を以てしても手に負えないことを徹底的に味わう「底つき」をして治療の必要性を認めなければならないのだ。社会が手に負えないとは、具体的には規制や厳罰化を以てしても社会問題や犯罪をどうにもできずむしろ悪化する状態なのだ。国家の存亡に社会全体が震え上がる「底つき」を国家レベルで経験しなければ、依存症という病気を理解することはできないのだ。

健康な人と病人は信仰対象が違う

依存症とその治療法は信仰によらなければ理解できないという話をしたのだが、これは健康な人と病人は信仰対象が違うということなのだ。根本的に教義が違うからお互いを理解しがたいのだ。

信仰は人間誰もが持っている能力なのだ。「信じる」とは自分の意思に方向づけをすることであり、その意思に基づいて人間は行動を起こすのだ。神仏や宗教の信仰の有無に関わらず、人間は「信じる」という能力を常時使って一挙手一投足に至るまで意思により行動を起こしているのだ。

健康な人と病人は、自分の意思の根源にある信仰対象への認識が異なるのだ。健康な人は生まれた時から環境に守られる原体験によって「世界は自分を守ってくれる」と固く信じているので、人生の成功が約束されているのだ。しかし病人はあまりにも過酷すぎる逆境の原体験によって「世界は自分を裏切り見捨てる」と固く信じていてその信仰に基づいた行動パターンが形成されているので、いかに前向きに行動や環境を変えようとも必ず人生を詰むのだ。

ここで言う信仰はマインドセットなのだ。それぞれの人の世界観はその人にとって唯一無二の信仰対象なのだ。

依存症がスピリチュアルの病気と言われる所以はここにあるのだ。依存症者は自分が世界から裏切られた存在であるという絶対的な信仰(マインドセット)があるから、自分が救われたいと心から思いながらその逆の破滅的な行動をするのだ。心の健康な人は自分が守られて当たり前の存在だと完全に信じ切っているので、依存症者のあらゆる矛盾行動が理解できないのだ。

単純に、違う"宗教"だから相容れないという話なのだ。「自立するためには依存先を増やせ」などとよく言われるのだが、心の健康な人と不健康な人では根本的な信仰(マインドセット)がまったく違うので、同じ依存先を増やす行動をしても前者は人生を豊かにして後者は身を滅ぼすのだ。

自分を誰かに「わからせたい」人々

人は受け入れられる経験がないと生きていけないのだ。特に世界から受け入れられなかった経験を持つサバイバーなら尚更で、自分をわかってくれる人を社会に増やしたいものなのだ。つまり、宗教の信仰の有無に関わらず、人は自分と同じ考えを持った"信者"を増やしたいのだ。

ここでいつもの文献を引用するのだ。

第一の犯人
 AAの文献によると、恨みが第一の犯人であると言えるだろう。恨みは他の何にもまして性的強迫症者を破滅させる。なぜならば、私たちは「恨みをはらす」のにアクティングアウト(行動化)以外の方法を思いつかないからだ。アクティングアウトは解決、武器、報復手段に見え始める。そして、どれだけ私たちを傷つけたかを相手にわからせる方法に見え始める。
 意識的にあるいは無意識に、私たちはスリップを正当化する理由を捜し出す。「最近ムシャクシャする」「誰も自分を理解してくれない」「何もかもうまくいかないんだ」
 私たちは、孤独で、傷ついたように感じて、人々に仕返ししたくなってくる。通りでぶつかってきた人、上司、恋人、親、そして自分自身に。神にさえも (そもそも、私たちが傷つき失望しているのは神の責任ではない だろうか?ならば神だって傷つき失望するべきだ)。
 私たちは自分の怒りが正当だと感じ、それにしがみつく。何があっても手離そうとしない。だから、私たちは性的強迫症の初期症状に気づくと、そのことでさらにイラついてしまうのだ。

性的強迫症からの回復のプログラム 第二版

われわれ依存症者は根深い信仰(マインドセット)によって支配されているので、同じ依存症者(まだ苦しんでいる将来の仲間)に対するバッシングを自分が傷ついたように感じてしまうのだ。そして、自分が傷ついていることを他人にわからせるためなら手段を選ばないのだ。治療前はそれが依存行為なのだが、治療してアディクションが止まると、怒りの根源が顔を出してくるのだ。依存行為が使えないのなら感情と言葉で他人をコントロールしようとする、それが今回の「万死に値する」発言撤回要請文書だったのだ。

野口健氏の言葉に非難の意図はなかったとのことなのだが、それでもギャンブル依存症界隈は「万死に値する」発言削除要請を野口氏が受け入れたことによって、社会への報復を成功させてしまったのだ。そしてそれを咎める人もいなかったのだ。

この文書は自分が傷ついていることを他人にわからせる手段として行使されたので、一般社会に生きるTwitterユーザーからは当然反発の声が上がったのだ。しかし一般の反発も、水原氏のことについて自分の生活に直接関係ないはずの人が怒りを探し当てて他人に向けている姿なのだ。彼らもまた、傷ついている自分をわからせたいがために怒りを探し当てて他人を叩き、共感者を集めて癒しを求めているのだ。

言ってみれば、これは病人と一般社会の小さな小さな宗教戦争なのだ。「自分を裏切る世界」を信仰する人と「自分を守ってきたはずの世界」を信仰する人の争いなのだ。

「他人は変えられない」をわかる難しさ

頭では理解していようとも、人は他人を変えようとしてしまうのだ。そしてそれは、恨みの感情の溜め込みとともに自分でコントロールするのは難しくなるのだ。

発達障害者である得たイさんは、20年以上信仰している宗教の組織の中で他人と同調できずに苦しんだのだ。依存症の治療に繋がってからもまったく理解が得られず、親ガチャに成功した幹部から罵られたことも数しれずあったのだ。そこで得たイさんは、この人達は病気を理解する"能力"がないと悟ったのだ。そしてここで初めて、他人を変えようとすることに対して無力であり、人生が手に負えなくなっていたことを認めざるを得なかったのだ。彼らは確かに同じ(宗教の)信仰をしているのだが、その根源にある信仰(マインドセット)が根本的に違うのだ。

一般社会でも同じなのだ。異なるマインドセットを持つ人たちが混在して暮らす社会で無理に他人を変えようとすれば、それは宗教の改宗を迫るのと同じなのだ。病人が他人に自分の信仰(マインドセット)の理解を求めようとするのは、健康な人からすれば、その人の信仰(マインドセット)を退転するように迫られているようなものなのだ。だから一般社会は依存症に対して理解を示すことはないのだ。あるとすれば、それは戦争などにより国家レベルでトラウマを植え付けられるほどの国難が到来する時なのだ。

AAの伝統10にはこうあるのだ。

10. どのAAグループもメンバーも、AAを巻き込むような形で、外部の論争に対して意見を述べてはならない。特に政治や禁酒運動、宗教の宗派的問題には立ち入らない。アルコホーリクス・アノニマスのグループはだれに対しても反対の立場を取らない。そういう問題についてはどのような意見も表明しない。

AA12の伝統(長文のもの)

AAはあらゆる依存症の自助グループの起源であれば、どのグループのメンバーもこの伝統を守る提案に沿うのが望ましいのだ。

この項目ほど「他人は変えられない」ことについて言及しているものはないと思うのだ。だから12ステップ自助グループはアウトリーチを「まだ苦しんでいる仲間」に留めているのであり、病院や刑務所をアウトリーチ対象にしているのも仲間へメッセージを運ぶ目的に留めているのだ。依存症についての啓発活動などやらないのだ。

精神疾患についての啓発活動は、極論を言えばそれ自体が他人を変えようとする行為なのだ。そのマインドセットが依存を助長するから、12ステップ自助グループはメンバーが無名にとどまり奉仕の心を以てアウトリーチに尽くしていると思うのだ。そこから逸脱してしまうと自分が生きづらくなるのだ。

他人をコントロールしようとすれば、しっぺ返しが返ってくるのだ。しかし野口氏に非難の意図がなかったにせよ「万死に値する」という強い言葉を使ってしまった故に、Addiction Reportは他人を操ることに成功してしまったのだ。この成功体験はアディクションの成功体験と言っても過言ではないと得たイさんは考えるのだ。

また、性被害経験者が性犯罪防止について啓発活動しているのをTwitterでは見かけるのだが、あれも他人を変えようとする行為であるが故に、一般社会から逸脱した害意を含んだ意見を発信してバッシングを受けているのをよく見かけるのだ。しかし本人たちは性被害によって植え付けられたマインドセットを固く信じているので、一般社会を自分の思い通りに変えようとするだけで自分のほうが変わろうとは一切しないのだ。

病気の啓発がいかに無力か、それを思い知らされるのだ。

すべて信仰の問題に帰結する

すべての人間が、自分の信仰(マインドセット)に問題があることを認識しなければならないのだ。マインドセットを変えるには自分の信仰を変えるしかないのだ。

信仰は人類の叡智なのだ。自分(人類)よりも遥かに大きな力が存在することを認め、その意思に従って生きていくことが必要なのだ。あとはそこに傾ける熱量だけの問題だと思うのだ。

得たイさんも今一度、他人は変えられないことを心に刻んでおかなければならないのだ。今回の件は、ハイヤーパワーが得たイさんにそれを教えてくれるために、神様が得たイさんを操ってこの記事を書かせたのかもしれないのだ。

そう思ったほうが幸せになれると信じつつ、今回の話を終わりにするのだ。

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