女性不信の新しい向き合い方を見つけたのだ

お久しぶりなのだ。

得たイさんは現在、初めての一人暮らしに向けて引越しで忙しいのだ。3週間くらい引越しやってるのだ。部屋のDIYが必要なのだ。

今回は、得たイさん最大の問題である女性不信についての話なのだ。得たイさんのセックス依存症の元凶に迫るのだ。

得たイさんにとって「女は敵」だった

得たイさんが8歳の頃に出した結論なのだ。6歳(小学校1年生)にして発達特性により学年の女子全員に避けられ、スパルタババア担任にいびられた結果、それを小学校2年生にして女が敵だという結論に至ってしまったのだ。

小学1~2年生にとっての世界なんて、せいぜい学校と家庭程度なのだ。当時の自分の中の世界中の全女性に人間扱いされなかったのだから「女は敵」と思って当然なのだ。いまは大人だからそんなことを言ってもクソデカ主語だという理屈は理解できるのだが、それは子供の頃と違って世界が広がっているからなのだ。しかしそれを受け入れても、その頃のトラウマが消えることにはならないのだ。

「女」は得たイさんに対して何をしたのか、という話になるのだが、一言で言えば「何もされなかった」のだ。良いことも悪いこともなのだ。ただそれは、人格を形成する最も大切な時期においては、親子関係で言うところのネグレクトと同じレベルのいじめなのだ。「何もされなかった」とはそういう意味なのだ。クラスメイトのみならず、教師までもがそれに加担したのだ。


女性不信と性依存のリンク――「女は敵」は性癖

女性不信と性依存症(得たイさんの問題行動は「のぞき」なのだ)を結びつける要因について、とても興味深い記事を見つけたのだ。

日本で痴漢が大量発生するのは満員電車だから。男はいったん性的な刷り込みが行なわれると生涯逃れられなくなる【橘玲の日々刻々】

 パラフィリア(性倒錯)は偏った性的嗜癖をもつことで、「露出症、フェティシズム、窃触障害、窃視障害、小児性愛、マゾヒズム、サディズム、服装倒錯的フェティシズム」の8つがDSM-5(アメリカ精神医学会APAの診断・統計マニュアル)に記載されている。
 こうした性差をベリングは、男はいったん性的な刷り込みが行なわれるとそれを変えることができないが、女は性愛に「柔軟性」があり、広範囲の刺激に対して性的に興奮しうる(刷り込みを上書きできる)からではないかと述べている。

 この性的刷り込みは一般に思われているよりずっと早く行なわれ、「男の子の4歳の誕生日から9歳の誕生日までの間のどこかの時期」とされる。この「敏感期」になんらかの性的対象にエロスを感じると、それが長期記憶に刻印され、思春期になってテストステロンが爆発的に増える時期に強く喚起されるようになるというのだ。――文学作品でしばしば幼年時代の性的体験が語られるのはたんなる意匠ではなかった。

 男の場合、いったん性的な刷り込みが(偶然に)行なわれると、生涯、そこから逃れられなくなる。このことを1980年代に性科学者のジョン・マネーは、「だれもが「通常の異性愛のおとな」になるための航路の一連の指示をあらかじめもって生まれてくるが、幼少期の破壊的な社会的出来事によってこの標準的な航路からまったく予測不能な道へと外れることがある」と主張した。

この「敏感期」は、育児において非常に大事な時期とされているようなのだ。得たイさんは8歳の頃に、同じクラスの女子がトイレを我慢できず授業中に粗相してしまったのを見てしまったのだ。それが「性的刷り込み」により強烈に脳に刻印されて、得たイさんの性癖が決定したのだ。この頃には得たイさん自身も界隈していた(粗相をやらかしていた)ので、おそらく刷り込みが徹底的に行われたに違いないのだ。

しかしそれ以上に衝撃的な出来事だったのが、これまで何度も書いている6歳の頃の女子から避けられたトラウマなのだ。この時に「女は敵だ」と徹底的に刷り込まれたのだ。

つまり「女は敵」は性癖なのだ。

性癖だからやめることも変えることもできないのだ。女性を敵視することは「嗜好」になってしまったのだ。

「女は敵」が性癖であり、なおかつスカトロが「女は敵」とともに性嗜好(性倒錯)という共通項になってしまったから、それが悪魔合体して「のぞき」という問題行動になったのだ。ふたつの性癖がコンボで問題行動になっているから、女性を敵視することはアディクション(嗜癖)であると言えるのだ。事実、得たイさんは小学校6年間、女性を敵視しなければ生きていけなかったのだ。

嗜癖は手放さなければならないのだが、性癖は大切にしなければならないのだ。だから得たイさんにとっての課題は、女性を憎むことをやめ、尚且つ女性を敵視する感情は大切にすることなのだ。

「女は敵」が性癖なら、それは尊重されるべきであり、自分自身もそれを大切にすべきなのだ。そうでなければ自分を愛することはできないのだ。それはつまり、女性を敵視することと大切にすることは両立できるということなのだ。


非モテと「女は敵」はまったく別の問題

しかし世間には、女性を敵視しているからモテないといった風潮があるようなのだ。しかしそれはまったくの見当違いなのだ。女性を敵視していてもモテている事案なんていくらでもあるのだ。

「セックス依存症になりました」を読めば、作者の津島さんが女性にモテていたけど敵視していたのは描いてある通りだし、女性に対する人権侵害である痴漢の常習犯の男が既婚だったなんてよくある話なのだ。非モテの人は「女は敵」だと思っているという考え方は、短絡的で思考停止しているのだ。

いやそもそも「非モテ」という単語自体、男女の人間関係を恋愛対象に限定した視野の狭い考え方なのだ。その考えをまず捨てなければいけないのだ。だから得たイさんは以下の記事を書いたのだ。

この記事に書いた通り「モテる」ことは「モテ」とは一切関係ないのだ。だから「女は敵」と「非モテ」もまったく無関係のものなのだ。むしろ大切にすべき自分の性癖である「女は敵」を否定したいから、恋愛対象外の異性との人間関係を無視した「非モテ」という考え方に陥り、結果として女性を憎んでしまうのだ。

「非モテ」という考え方はコンプレックスの塊なのだ。このことは、以下の記事がわかりやすいのだ。

性癖としての「女は敵」とモテ(敢えてこの言葉を使う)は両立するのだ。得たイさんは自助グループでよく女性を敵視してきた話をするのだけど、グループの女性メンバーからはその正直さをよく褒められたりするのだ(えへへ)。セックス依存症の自助グループは男女仲が良くても、みんな依存からの回復を目的に参加しているから、グループ内の異性は恋愛や性の対象にならないのだ。これが「モテ」じゃなかったらいったい何を以て「モテ・非モテ」の定義とするのか教えて頂きたいのだ。

モテを諦めることが必要なのだ

女性が得たイさんを人間扱いしてくれる唯一の場が自助グループだからこそ、そこで「女は敵」という性癖をぶちまけてミーティングを楽しんでいるのだ。これが健全な男女の人間関係なのだ。得たイさんは今、人間らしい生活を取り戻しつつあるのだ。その大きな潮流が、いま必死に進めている初めての一人暮らしの引越し作業なのだ。

得たイさんにやってきた大きな潮流は、自助グループに参加して自分が人間に戻る作業の賜物なのだ。ウーバーイーツが地元に進出し、そのタイミングで持続化給付金が制定されて100万円の軍資金が調達でき、両親イからの援助もあり、さらに55インチのテレビがタダで手に入るに至ったのだ。これは得たイさんが自助グループでの回復に伴って、結婚やセックスがなくても幸せな人生を送れる道標を示した絶大なハイヤーパワーなのだ。

モテを諦めると心が洗われるのを日々感じるのだ。noteを書くに当たり、得たイさんが以前対立した某アライさんのnoteを読ませて頂くことがあるのだが、内容は共感できないけどなぜかファンになりそうなくらいのワクワクした気持ちで読んでいるのだ。「女は敵」の話じゃないけど、得たイさんは嗜癖としての憎しみを手放し、性癖としてのウォッチングを楽しんでいるのだ。

女性を敵視する感情を大切にすることを覚えた得たイさんは最強なのだ。このまま健全な恋愛結婚も健全なセックスも諦め、悠々自適の楽しい生活を送ることに全力を注ぐことを目標にしたいと思って、今回は終わりにするのだ。

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