ハーフ・オブ・イット : 面白いのはこれから
今回もまたNetflixオリジナルです。アメリカの田舎町に住む中国系の女子高生エリーと、エリーにラブレターの代筆を頼みに来る男の子ポール、そのポールが恋しているアスターの3人の恋愛と友情を恋愛物語でも成長物語でもなく、ひとりひとりのアイデンティティの話として描いた青春映画。とにかく出て来るみんながめちゃくちゃかわいい。『ハーフ・オブ・イット : 面白いのはこれから』の感想です。
監督自身が台湾出身のアリス・ウーなので、自身の経験から来てる物語だと思うんですが、アメリカの田舎町に住む女子高生エリーの心の葛藤を、国籍も性別も年齢もましてや恋愛観さえ(エリーはLGBTの女の子なんですね。映画の中盤くらいで明かされるんですが。)も違う(日本在住のおっさんの)僕がほんとに不思議なくらいに自分ごととして観てしまったんです。では、何にそんなに共感したのかって話なんですが。えーと、主人公のエリーは母親を亡くしていて、中国から鉄道の仕事をする為に移住して来た父親と2人暮らしなんですね(この時点で僕とは家庭環境も全く違うんですが。)。で、このお父さんが英語があまり喋れないということで引きこもり気味というか家で映画ばかり観て過ごしているんですね。で、それを受けて、読書好きで勉強も出来るエリーは学校でレポートの代筆をしてお金を稼いでいるんです。そういう頭が良くてしっかりしてて、学校でただ一人の中国系ということで意地悪なこと言ってくる奴らなんかもいるんですけど、本人はあまり気にしてないというか、サルトルやプラトンなんかの哲学書も読んでたりするので、他人との関わり方もクールで「友達なんかいなくても私は私のやりたい様に出来たらいいの。」って感じの、まぁ、そういう女の子なんです。で、このエリーの頭の良さを見込んでラブレターの代筆を頼みに来るのがポールっていうアメフト部の男子(アメフトは補欠なんですけど。)で、典型的な女子の気持ち分からない系童貞野郎なんですけど、ただ、今時、恋する相手に手紙で想いを伝えたいなんてロマンチックなところもあったりして。頭はあまりよろしくないけど気のいいやつではあるんです。そして、そのポールが恋をしてるアスター。学校のマドンナ的存在でありながら、本人は自分のそういうところにあまり頓着してない、なんなら外見の良さに惹かれて集まってくる人たちに辟易しているというか、そういうコミュニティーにいる自分に少し疲れている様な感じなんです。
という3人の恋とか友情の物語だと思って見始めたし、この時点では正しく陰キャの女の子と筋肉バカの男の子がチームを組んで学校のマドンナを陥落するっていう80年代ラブコメ的なところが見どころ(だし、そこはそれで充分面白い。)なんですけど、僕は別にわが青春の80年代の懐かしさに共感したわけではないんですね(もちろんそういう部分もあるにはあるんですが、この映画の懐かし感みたいなのってもの凄くそこはかとないんですよ。だから、これも監督の個人的な思い出の中の、出そうと思ってというよりは、自分の物語を描いてる中でなんとなく出てきてしまった空気感なんだと思うんです。で、それは個人的に『ROMA / ローマ』を観た時に感じた「もしかしたらこの感覚を感受出来るのは自分だけかもしれない。」っていうそこはかとなさに近かったんですよね。)。では、何に共感したのかというと、序盤のこの " 誰かの思い出みたいな話 " が、映画を観ていくうちに徐々に、そこに現代的な社会問題を孕んでいるんだと気づいてくるんですね。で、普通は物語がそっちに行くと「あれ、これオレの話じゃないな。」と少し気持ちが離れるもんなんです(ていうか、僕は今まで映画を観ててそう感じてたんだということがこれで分かりました。本当の意味で今まで自分ごととしては見ていなかったなと。)。でも、この映画の場合、そういう(例えば、LGBTとか移民に対する差別や、宗教観の違いや、コミュニティに属することとか、そこでの同調圧力や、古い慣習を見直すっていう)いわゆる社会問題が、みんなもともとは個人的な心の問題で、それは思春期に誰もが感じる " 不完全な自分に対する不安 " から来るものと同じだって言ってるんですね。つまり、「(LGBTで移民の)私が感じている違和感は、みんながかつて感じていたものだ。」ってことです。最近は映画の中でLGBTに限らず(例えば、それが主題ではなくても)差別の問題というのが様々な形で描かれてますが、もしかしたら、個人的に初めてLGBTの問題を自分ごととして感じたんではないかと思いました。
では、えー、それが具体的にどう描かれるのかというとですね。ポールにラブレターの代筆を頼まれたエリーは一度断るんです。まぁ、それは自分もアスターに恋心を抱いているからなんですけど、家の電気代が払えない事態になってお金を稼ぐ為にやっぱり受けることにするんですね。つまり、そのくらいの感覚なんですよ。エリーのアスターへの恋心っていうのは。でも、10代の恋なんて(自分の経験からしても)そんなもんじゃないですか。だから、ポールのアスターへの想いも同じ様に淡いものだと描かれるんです。それでエリーはアスターへの手紙をポールになり代わってしたためることになるわけですが、このプロットってフランスの戯曲の『シラノ・ド・ベルジュラック』と同じなんですね(僕は、それをもとにしたスティーブ・マーティン主演の『愛しのロクサーヌ』って映画を観てたので知ってました。)。こういう引用がこの映画めちゃくちゃ上手くてですね。要するに自分がLGBTだということを言えずにアスターへの手紙を代筆しているエリーを、容姿の酷さに悩みロクサーヌに直接愛を打ち明けられないシラノに重ねてるんですね(ちなみに、スティーブ・マーティン主演の『愛しのロクサーヌ』では、主人公は鼻が異常に大きいというのが特徴になっているんですけとわ、本人も周りもそれを特に否定的には捉えてないんです。ただ、それがあることで自分はロクサーヌにはふさわしくないと思ってしまうという描き方になっています。だから、今回の『ハーフ・オブ・イット』はそれよりももっと淡くて。自分がアスターに感じているのは恋なのかどうかもまだハッキリしないくらいなんです。)。つまり、10代の淡い恋心の話の裏に、死の直前まで自分の想いを告白出来なかったシラノ程の葛藤や痛みがあるって言ってるんですけど、そういう重い話を全部引用で言ってるんですよね。この映画。だから表面上はとてもシンプルなラブコメに見えるんです(なのに何か深い感じがするのはこの引用のせいなんですよね。それがこの映画のスマートさになってるんですけど。)というか、そのラブコメ設定さえ比喩的で、その引用が物語的に何を表しているのかというと、主人公エリーのまだ自分の言葉を持たない未完成さと、自分は他人とは違うということを肯定的に捉えたいエリーの逃げ場としての創作物ってことですよね(思春期に映画とかロックにハマるのってこれですよね。”自分の好きな芸術が自分の考えを肯定してくれる”という。僕がこの映画に最も共感したのはこの部分です。)。そして、それは監督の人生に"気づき"を与えてくれたものでもあると思うんです。
手紙の代筆を続けるエリーはどうしたって自分の恋心というのが出てしまうわけで、その本気の言葉にアスターも惹かれていくわけなんですけど、ある時、父親が家で観てたヴィム・ベンダース監督の『ベルリン 天使の歌』のセリフを引用するんですね。そしたらアスターから「私もヴェンダースは好き。でも盗用はしない。」って返事が来るんです。これにエリーはどう思ったかというと、「この人、私が書いたこと理解してる。」と思うんですよ。これですよ。ほんとに淡い「いいなぁ。」くらいに思ってた人が
、自分にしか理解出来ないと思っていたことを理解している。しかも、それは"不完全な自分"を守る為の鎧だったわけで、その鎧が、今度は相手と繋がる為の共通言語になったってことなんです。つまり、誰にも理解されなかった自分を理解してくれる人が現れたってことです。これを思春期の頃の自分の心情と重ね合わせたら、ああ、凄く分かるなと思ったんです。人を好きになるということの瞬間をこんなに分かり安く描いたものも今まで観たことなかったし、LGBTの問題を誰もが感じる共通言語として描いているのも良かったんですよね。そして、それがそのままエリーのアイデンティティになるっていうのも。なにかひとつ成長すると言うよりは、人を好きになるということがそれまでの自分を肯定する為の"気づき"になるっていう。最後にようやく自分の言葉を手に入れたエリーのセリフが、それまでのエリーのシニカルさを全力で肯定してたことも、自分自身の生き方さえ肯定された様で良かったんですよね。
悩みの種類はそれぞれでも"不完全な自分"を必死に受け入れようとするみんなを(アスターの婚約者のバカでナルシストのあの彼さえも)全肯定してあげたくなる(し、ついでに自分の人生も改めて肯定してあげたくなる様な)、新たな青春映画のマスターピースだと思いました。
(これは余談ですが、ポールとアスターって書いてて、これってポール・オースターから来てんのかなと。哲学的な話を何でもない物語にするってちょっとポール・オースター味あるなと思ったんです。)