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傷にふれる

人の”傷”を見ることがある。

中学生のころ、ある女の子と教室で近くの席になった。
春にクラス替えで一緒になってから何度か言葉を交わしていたが、同性ながらかわいいなと思ってしまうような子だった。
夏になり、半袖を着るようになってから、わたしはその子の傷を見た。
幼い時の手術の痕らしかった。
その子の気品ある所作に少し不釣り合いなくらい痛々しく腕に残ったその傷を見て、わたしは少し目を逸らしてしまったことを今でも鮮明に覚えている。

わたしは、人の傷を見て、目を逸らした、のだった。

しばらくして、わたしは違う友人の、見えない”傷”に出会うことになる。
彼女の傷は見えないというより、「見せない」“傷”であったように思う。
そしてその“傷”を時として見せることで、彼女はその傷の痛みをうまく感じないようにしたり、傷と見做さないようにしたりしていたのだと、今ならそう思える。

人はみな、それなりに、見えない”傷”を持っているのだと思う。
その頃のわたしは、言葉や空気を介して相手の何かが自分の痛みとつながる感覚に突き動かされていた。そんな自分が居ることを、むしろ夢のように感じられるほど不気味に、はっきりと感じていたのだった。
傷を見せられて目を背けられなくなったわたしは、その痛みを共有することで、自分の“傷”も、この人となら“傷”ではなくなるのだと信じていた。互いに、そう信じたかった。

“傷”は、そう簡単には治らない。
むしろ、“傷”のうえから“傷”をつくってしまうことだってある。
かすり傷を重ねていくうちに、致命傷に繋がってしまうことだって、あるのだ。

「…ガラスはほんとうはとてもとても頑丈だけど、目に見えない傷がたくさんついていって、なにか衝撃を受けたときに割れてしまうものだって。あなたが割ったように見えるけど、いままでの傷がつみ重なった結果だから気にしなくていいのって。そういう目に見えない傷のことをグリフィスの傷っていうんだって教えてくれた。」

『グリフィスの傷』千早茜

“傷”を治せると信じていたわたしは、結局彼女の“傷”から離れた。
空気で伝わる痛みがわたしの傷に傷を重ねる感覚から逃げるためだった。
さらに悪いことに、わたしは彼女の“傷”を見ているふりをしていた。
本当に見ていないことに彼女が気づいた時、彼女の“傷”は致命傷になってしまったのだと思う。そこからのことは、あまり覚えていない。

わたしは、人の“傷”を見て、逃げた、のだった。

自分の傷は、やけにはっきりと見える。
人生はやり直しが効かず、傷は残り続ける。
その“傷”の向こうに、いつかの誰かが見える。
整理を先延ばしにした記憶が全部ひっくり返される。
傷跡をなぞりながら、こんなことに意味があるのだろうかと、どうしても痛みを感じてしまう。

最近、人と話しているときに、その人の”傷”を見ることがある。
真剣な眼差しの奥の方、たましいとも呼べるかもしれないその人自身、”在る”という温もりの貴さの中で、”傷”が透けて見えてくる。

その瞬間、わたしのこころは動く。

この人が、わたしの目の前に居るということ。
わたしが、この人の目の前に居るということ。
互いに生きていて、同じ時間を過ごしていること。
深い部分が共鳴している、そんな感覚。
目の奥が熱くなって、胸がいっぱいになる。
こんな世界滅びてしまえと呪った自分が、一瞬だけ過去のものとなる。

時に沈黙に身を浸し、時に言葉を丁寧に紡ぐ。
この時のためなら、と、わたしはまた、傷をなぞるのだ。

“傷”にふれること。
今でも少し、こわいこと。

けれども、わたしはこの痛みを信じるしかない。
わたしの痛み、わたしの傷。わたししか知り得ない、わたしだけのもの。
わたしを生きようとするとき、この傷なくしてわたしとは言えない。
無理に前を向こうとしなくても、無理に隠そうとしなくても、そのままのわたしが用いられる未来があるなら、いや、それを信じるほかない。

そうして今日も、この痛みに耐えて生きている。




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