ライズオブローニンを楽しむための幕末日本事情 外伝
さて、幕末日本探訪記を記したロバート・フォーチュン氏だが、彼はスコットランド出身のイギリス人植物学者なのだ。植物以外にも興味はあるが植物が大好きなのだ。そんな彼の探訪記を参考にした記事を別で書いた。そちらの趣旨から少し外れてしまうが、紹介したいエピソードを見つけたので、別記事にしてみた。
一応、簡単な解説もするので幕末事情という括りのつもりだ。
↓普通版の方
それでは本題に入ろう。
まず項のタイトルが「江戸行の画策」。不穏だ。
それでは事の始まり。
文から滲み出てくる「何としても植物採集のために江戸に行きたい」という気持ちは理解できるが、一私人であるフォーチュンは勝手に江戸に入ってはいけないのだ。イギリス公使館を通して然るべき手続きが必要となる。
引用文にあるオールコック閣下とは
ラザフォード ・オールコック駐日総領事かつ公使のことだ。彼が不在であったのでフォーチュンは困ってしまった。留守役に頼もうか?とも考えたのだが、何か察してしまった。フォーチュンの勘は恐らく正しいだろう。だから彼も気が進まなかったのかもしれない。
これは、シュレーディンガーの猫的なアレで、
「実際に頼まなければ、許可された、という結果と、断られた、という結果が同時に存在している」
という考えだと思う。
結果を知るにはイギリス公使館に申し出る必要があるのだが、フォーチュンはどうしても江戸入りしたいのだ。
そして、本来であればオールコックが日本に戻るのを大人しく待っているべきだったのだが、
時期が過ぎてしまうのだ。大問題である。確かに、植物、ことに花などは時期を逃すと取り返しがつかない。かく言う私も梅の花を見に行きたいと考えていた内に機を逃した。今年はもう諦めるしかない。
話を戻そう。
江戸入りを諦めたくない彼は、
学者はたまに突拍子もないことをする。大抵は笑い話で済む程度のことなのだが、日本と緊張状態にある幕末においては割と笑えないレベルの行為なのだ。
また日本との関係以前に、自国の公使館を飛び越してして他国の公使に話を持って行ってしまうのは控え目に言っても大問題だ。
仮にイギリスとアメリカの関係が良好であっても、国家という枠組みがある以上はやっていいことと悪いことがある。もしかすると、アメリカ公使館側はフォーチュンが自国の公使館を通してないことを知らないのではないか?
そして、江戸滞在の目処が立ち、ご満悦だったフォーチュンだが、江戸の郊外に入ったあたりで、イギリス公使館員の一行に出会う。そこでは何事もなく別れるのだが、
要約する必要のない文章だ。
きっとイギリス公使館員達は面食らったに違いないだろう。
極めて妥当な要請であるのだが、この項のタイトルは「不愉快な通信」である。
もしかしたらこの後にフォーチュンが公使館員に対して送った返事のことを指している可能性もあるが、恐らくは違うだろう。
この要請に対してフォーチュンは、
要約すれば、
「江戸に行きたかったけど、イギリス公使が不在だったからアメリカ公使に頼んだ。帰りたくない」
となる。
軽く解説しながら見ていこう。
まず、フォーチュンは自分の研究、及び江戸行きが国益になることを強く主張し、またそのためにわざわざ日本に戻ってきたことも主張する。
次に、現状に至った状況説明をするのだが、許可なく江戸に入ったことを詫びるのかと思いきや、むしろ話の分からない公使館員では許可を得られないことを仄めかす。
フォーチュンの手紙からは、自分が江戸に滞在できないのは不当だとでも言いたげな気持ちが伝わってくる。
そして、イギリス公使が不在なのでアメリカ公使から、自分が当然得られたはずの許可を得たにすぎないと主張する。
ここにはまさに、
「話の分からない公使館員とは違って、公使本人なら私の研究の価値を理解して江戸滞在を許可したはずだ」
という思いが文から溢れる。
そしてアメリカ公使について、再度「話の分からない公使館員とは違って、アメリカ公使も私の研究の価値を理解して江戸滞在を許可してくれた」と強調する。
最後に、「もう文句はないね?」という言外の主張を込めるのだが、一抹の不安からか自分の研究の価値を再度主張しておく。
さて、イギリス公使館員がフォーチュンに対して言いたかったのは、
「手続き…してなくない?」
「してないなら江戸入ったらダメじゃない?」
「退去する必要があるんじゃない?」
ということなのだ。
あくまで手続き上の話と、それに則った措置の話をしている。
ここで問題だ。国語の問題。
①フォーチュンからの手紙を読んだイギリス公使館員の気持ちを答えよ。
②あなたがイギリス公使館員なら、どのような返事をフォーチュンにするか答えよ。
答え↓
やはり、要約する必要のない見事な文章だ。公使館員の職分に基づく手紙(公文書?)だからだろうか。主張のまとまった分かりやすい文だが、当人の困惑も伝わってくるのが面白い。
まずイギリス人として、公使ではなく、一般人として日本に来ているフォーチュンは、先程も記したが江戸に行くには、イギリス公使館を通す必要がある。
この頃1861年の日本は外国人にとっては居留地内ですら危険であった。なぜなら攘夷派による襲撃が度々発生しており、江戸内外で死者も出ている。現に、フォーチュンが散策をする際には護衛に日本人の役人がついている。だから居留地外での行動や、ましてや江戸滞留は公使館が神経を遣う案件なのだ。
たとえ、条約上の日英関係が自国に有利なものであっても。
公使館員にとっては、フォーチュンの釈明は全く理に適わないものなのだ。
「オールコック氏が不在でなければ許可をくれたはず」
だとか、後から言われたところで手続き上の意味はない。また問題なのがその後だ。
フォーチュンは、
「公使館の係員から、江戸に入る許可を得られないことが分かりました。p196」
と手紙に書いていたが、公使館員の手紙には「頼みもしなかったことです。p199」
と書いてある。
思うにフォーチュンは、頼んでもどうせ許可が得られないだろうことを考えて、自己完結してしまい、頼んでないのに断られたつもりでいたのだろう。
そして公使館員はあくまでも手続きが行われていないことを強調しながら、フォーチュンを諭そうとする。半ば諦めも伝わってくるが。
公使館員の言う通り、一般のイギリス人が江戸に入るにはイギリス公使館を通さなくてはならない。これは日本とイギリス間での取り決めであって、イギリス人を江戸に通す権限はアメリカ人には無い。
もっとも、日本の立場は微妙なのでゴリ押しは効くだろうが。
安政五カ国条約とは、結んだ順に挙げれば、アメリカ、オランダ、ロシア、イギリス、フランスと日本が結んだ修好通商条約であって、内容が同じであったとしても、個別的なものなのだ。だから、イギリス公使館を飛び越えてイギリス人を江戸に滞留させる権限はアメリカ公使館にはないし、アメリカ公使館を飛び越えてアメリカ人を江戸に滞留させる権限もイギリス公使館にはない。
イギリス公使館員が問題にしているのは、終始手続きの話なのだ。
だからこそイギリス公使館員の手紙はフォーチュンに対して、
あなたが何をしたか(状況説明)
↓
なにが問題なのか(手続きの不適当さの説明)
↓
あなたはどうすべきか(とるべき処置)
を示す。やはりと言うべきかこの項のタイトルは「見解の相違点」だった。orz
ちなみにこの頃のフォーチュンは大体50歳くらいなのだ。公使館員の年齢は分からないのだが、50歳くらいの男性に対してこのような手紙を書く必要があったことは遺憾であったろうとは思う。言い過ぎたとは書きながらも、そこはかとなくイライラしているのが伝わってくる。
そして官僚であれば当然だが、先例をつくることを恐れている。
他国の公使館とやりとりする者が増え、それを自国公使館が制御できないとなると、収拾がつかなくなる。この流れが他国まで広がればかなり厄介だ。
一般に官僚、公務員は、お役所仕事だとか先例主義だとか頭が固いだとか、悪く言われがちだが、優秀な官僚は法や慣例を解釈で捻じ曲げることはしない。官はあくまでも官なのだ。
ルールを決めるのは民主的に選挙で選ばれた議員の仕事であって、民の代表たる議員が決めたルールが不適当であるならそれは、官ではなく民の問題なのだ。
もっとも、1860年代のイギリスの選挙は投票する責任も現代とは違うので、一概に問題とは言えないのだが。
話が逸れた。
この公使館員からの手紙に対してフォーチュンは、
要約すると、
「不服だが、遅くとも明日の朝までには江戸を退去する」
だ。
フォーチュンの文章は味があって面白い。翻訳文ではあるが、当人の豊かな人間性が伝わる良い文だと思うのだが、公使館員との手紙には不要な箇所が多い。対照的で勉強になるが、ビジネスで必要なのは公使館員のような文だ。
ただ、私も言い訳をする時はフォーチュンを見習いたいところではある。
実際のところフォーチュンは、イギリス公使不在中にイギリス公使館員に余計な仕事を増やしたばかりか、日本側の役人にも余計な仕事を増やしている。(護衛しなければならない)
また、一私人としての行動であっても、外国においては、母国の評価を左右しかねないということを忘れてはいけない。
しかしながらフォーチュンはやきもきしているイギリス公使館員のためにも、可及的速やかに返事をするべきところを、翌朝まで保留している。
・自国の公使館に頼みもせずに外国の公使に頼む
・外国の公使に頼んだことすら相談せずに勝手に江戸入りする
・江戸で公使館員と会っても特に悪びれない
・公使館員からの要請に対して何故か食い下がった上に、所々で公使館員を融通の効かない相手扱いする。
・自らの失礼を失礼と認めない
・早急な返事が必要なのに翌朝まで引き延ばす
・逆に公使館員の方が礼を失していると指摘する
もうすでにかなり失礼な行為を重ねているにも拘らず、フォーチュンの認識では、無礼をはたらかれたのは自分である。
そして、アメリカ公使に江戸滞留を頼んだことについては、
「間違いであったかも知れない。p200」
として、自らの非を認めきれていない。
また、その次の文で一刺し嫌味を添加する。
フォーチュンは、イギリス公使館からの要請には、やむなく従うが、全然納得できていないことを表明してやり取りを終わらせている。
非常に面白いのだが、ここでフォーチュンがすべきだったのは謝罪ではなかろうか?
独断で行動し、公使館員の手を煩わせてしまったことや、今現在煩わせていることに対して多少なりとも謝意を示す必要があるのではないか。
公使館員からしてみれば、独断で立ち入り制限区域に、それも国も挟まずに他国の公使に頼んで勝手に侵入していたのだ。
あなたが公使館員だったらどうだろうか?
焦るのではないか?
そして発覚後に、とるべき措置として退去の要請をしたら、悪びれないどころか不満気に開き直られたのだ。
困惑するのではないだろうか?
そして、しっかり分かって貰おうと再度要請をすれば、今度は要請に従いながらも文の大半に不満を込めて無礼だと言われたのだ。
私が公使館員だったら呻きながら頭を抱えていると思う。
そんなフォーチュンのその後の記録だが、
やはり1mmも反省していなかった。しかも知ってた。orz
そして相変わらず面白い文を書く。
要約すると、
「融通の効かない公使館員のおかげで江戸に滞在できず、不快な思いをした」
といったところだろう。
確かにルール上は微妙なところでも、後から常例となることはある。
それにフォーチュンは自分のは観光ではなく、学術研究だ、とも言いたかったのだろう。気持ちは分かる。
実際問題、完全に外交関係者や護衛の者しか立ち入れなかった場合、かなり不便だ。
だが、江戸はまだ外国人に開かれていなかった以上、関係者以外を迎え入れるには身元を保障する者や、日本側の監視も必要となる。もちろん警護する者もだ。
そもそも開港予定だった神奈川を、幕府が土壇場で横浜に変更したのも、日本人と外国人が接触することによって生じるトラブルを防ぐという目的があった。もちろん主要都市、主要街道から遠ざけたかったのもあるだろうが。
それに先程も書いたが、時代が時代なのだ。攘夷派による外国人襲撃が多発しているのだ。
ハリスの通訳として有名なヘンリー・ヒュースケンも江戸で殺害されている。1861年1月のことなので、フォーチュンが無断で江戸入りした3〜4ヶ月前のことだ。
誤解しないで頂きたいのだが、私はフォーチュンに対して、何か含むところがある、というわけではない。
彼のこのエピソードは幕末の雰囲気を感じるのに使えそうであったが、なにぶん長いので取りあげ辛く、しかし紹介はしたかったのでこの記事を作成したのだ。
幕末に江戸を彷徨く外国人というのは、町人はともかく武士にとっては極めて不愉快な存在であった。もちろん、外国人から学びたいと考えた武士もいるし、友人付き合いしたかった者もいるだろう。
だが、軍人である武士からすれば、半ば力づくで開国させられたことも屈辱的であるし、その外国人に対して何かしらの便宜を図る必要があることも耐え難い。
日本近代化の遠因となった薩英戦争、下関戦争も原因は外国人に対する反感である。
薩英戦争の引き金となった生麦事件は文化慣習の違いが引き起こしたわけではあるが、薩摩側からすれば、不当な行為があったのはイギリス側であるし、私の偏見もあるが、アヘン戦争ほどではないがイギリス側に問題があると思う。
下関戦争はやや事情が変わる。これは元々攘夷を行動に移したかった長州藩が口実を得て行ったものだ。
話が完全に逸れてしまった。
幕府は仮にも日本政府扱いされていたのだが、国内の勢力や権威、権力の統一はできていなかった。
それには日本特有の原因があり、解決策は後世の私たちが知っているのだが、ここでは話が逸れる。
とにかく、幕末の国内勢力は混沌としており、外国人が出歩くのは非常に危険であった。そんな渦中の日本の記録を残してくれた外国人には頭が下がる部分もある。
後世の人間として、見聞録があるのはすこぶる有益だ。
幕末の日本に滞在し、本業である植物学者としての活動の合間に、当時の日本を記録して公表してくれたロバート・フォーチュン氏には感謝したい。そのフォーチュンの不満で抜粋された記事にも幕末日本の雰囲気を知る手掛かりがあるのは興味深いことだ。
今回はフォーチュンとイギリス公使館員との悶着を取りあげたかったので、ここまでとする。
参考文献
幕末日本探訪記 江戸と北京
ロバート・フォーチュン 三宅 馨 訳
株式会社講談社
1997年12月10日第1刷発行
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