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肩書きについて考えること 2O24.O6.O5 essay

今年の4月から司書資格を取ろうと思って、近畿大学の通信制コースに入学した。
なぜ司書資格なのかというと、まず本そのものと、読書と、本のある環境が好きだから。あと、司書資格があると今後もし別の書店や図書館で働きたくなった時に有利だと思ったから。あとは…まあ本音を言うと、わたし自身が気分屋な性格なので一つくらい資格を持つことで自分自身に安心を与えたかったという理由が大きい。

受講内容としては送られてきた教材を深く読み込んで、インターネット上で課題提出と試験をクリアしていく、というものなんだけどここで問題が。
"「やり方」がまちがっていたときのこと"というエッセイでも書いたように、わたしはカチカチした文章を読んだり書いたりするのが大の苦手である。でも司書のテキストはどれも小難しい言葉で語られており、しかも対面授業ではなく独学スタイル。4月は教材が読めないという壁にぶち当立ってどうしようかと悩んでいた。こうなると司書を取りたいという気持ち自体が冷めてきてしまう。だけど本について深く知りたいという興味自体は消えていないし、書店バイトでも毎日新しい学びがあって、それも楽しいと感じている。

本質にたちかえってみよう。司書さんというのは本が好きで本に詳しく、自分以外の人にもそれらを与えられる人のことだ。だったらまずは"資格取得者"ではなく、本が好きで本に詳しい人になろう。そして学んだことはどんどん人に伝えていこう。司書を目指すのではなく、いますぐ司書になろう。これは恭平さんが言っていてなるほどと思ったこと。なりたいものに今すぐなる。そのためにはなりたいものを複雑に定義しないことが大事だ。絵描きになりたいなら絵を描く。小説家になりたいなら原稿を書く。お医者さんになりたいなら身近で困っている人の体に手を当てにゆく。それくらいにシンプルに考えたら夢は今すぐ叶うのだ。

しかしこの世の中では資格の有無で人の肩書き及び呼び方が決まるシステムになっている。例えば毎日家族のために食事を作っている人のことを、わたしは心の中で立派な"料理人"だと思っているのだけれど、世間ではそうは言わない。話を聴いて真摯に相談にのってくれる友人のことを、この人はわたしの"カウンセラー"だ、と感じるけれど、そんな話をしたところで他の人からは「あ、そう」で終わるんじゃないかな。
ううん、資格というより、お金が肝なのだ。それでお金をもらってるかどうかが、肩書きにつながっている。その逆でお金を払っている人も肩書きをもらえる。第一資格がそうだ。タダでとれる資格がないんだもん。他にも、学費を払っていると"生徒"と呼んでもらえる事例がある。もしこの場合にお金を払っていないとなるとどうだろう?"弟子"みたいに、ちょっと生徒とは別のニュアンスの肩書きで呼ばれるんじゃないかな。それか、「学費は払ってないけど一応生徒です」みたいに、わざわざ説明が必要になるかも。そこにお金のやりとりがあるかないかで、社会的なアイデンティティが変わってしまうのだ。

というように無意識のうちに金銭授受=その人の肩書き、となっている世の中だけど、わたしはもっと本質的な部分で人のありようを捉えたいなあと思う。どこそこで働いているから〜の人、と決めつけるのではなく、その人が本当の部分で力を発揮している部分や、その人が大事にしている部分でその人のありようを感じ取りたいのだ。いま就いてる職がその人の本来の姿かなんてわからないし、趣味や副業だからって仕事の二の次かどうかなんてのもわからない。その人がどんな人なのかは、もっと深い、見えないところにあるはずで、それを見つけ出したいのだ。

さくさくと司書の資格勉強が進められていたらこんなことは考えないのだろうけれど、いちいちこうやって疑問を感じて立ち止まってしまう。そんな自分のことを哲学者だなあと思う。もちろんそれにまつわる資格も職もないし、誰一人として周りからそんなこと言われたことないので、自称っていうやつなのだけど、人それぞれに「自称~です」があるといいなと思う。いま肩にはインコがのっている。この子は歌うのが大好きなので歌手だし、もう一羽のインコは熱心に巣作りばかりしているので建築家である。妹は美容師。今でこそ資格を取って働いているけれけど、以前から家で髪を切ってもらってるわたしにとっては、専門学生のときからずっとずっと変わらず美容師さんである。

というわけで山積みのテキストは部屋の隅にいったん片付けて、興味のあることから調べ学習してみることにした。好きなことをどんどん吸収していけばいいんだ、と思うと心が楽になって気になることや調べたいことがぽつりぽつりと湧いてくる。勉強はそもそも、楽しいものなのだ。それで最終的に資格が取れたらそれはそれでラッキーだし、取れなくても問題はない。もしその時まわりから司書だと認めてもらえなかったとしても、やっぱり自分にとって本が好きで、読書が好きで、それで人と関われることができているのならば、それは他の何でもなく司書の人生だと思うから。



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