いい写真が何かわからなかった編集者が写真を読めるようになるまで
駆け出しの編集者の頃、雑誌の担当になった。作庭家がつくったガーデンデザインを紹介する本で、写真は紙面のなかで重要だった。カメラを触ったこともなかった新人編集者の私が何より苦労したのが写真選びとラフレイアウト。人物のポートレートなら笑顔などわかりやすい指標があるけれど、風景や心象風景を撮った写真のどこをみて選べばいいのかわからなかったのだ。当時はフィルムだったが、ポジ袋がくしゃくしゃになるほど何度も覗き込んだ。カメラマンも先輩も「いい写真」が何か、言語化して教えてはくれなかった記憶がある。ふと自分なりに体得した写真についての言葉をまとめてみたくなった。素人の素人による写真講座、いい写真て何か?と考えている人に向けて。
「いい写真」は、撮った人のまなざしを感じる
同じ花を撮るとしても、写真はいく通りもある。写真は事実を映すと思いがちだけど真実を映す。撮る人がどんな風に世界を見ているか、世界から何を受け取っているか。その人の物を見るときのまなざしを感じる写真がいい写真だと思う。
「写真を撮るとき、どんな風に見ていますか」とカメラマンに聞いたことがある。
「鳥の目になり、虫の目になる」と答えたカメラマン。ビシっと隅々までピンが来た引きの写真がうまかった。
「花でも物でも笑った瞬間に撮る」と答えたカメラマン。生き生きした躍動感のある写真だった。
カメラマンに写真を依頼するとき、カメラマンの本質的な世界の見え方とあまりにも違うリクエストをするといい出来にならない。現場で編集者がノーを言い説明を重ねるとカメラマンは混乱してイライラしてくる。喧嘩になるか萎縮した写真になってしまう。
誰にでも撮れる写真はいい写真とは言えない。「ほら、皆こんな風に見えているんでしょう?」という最大公約数になる。めちゃくちゃ個人的で変態的執着が出ちゃってるくらいでいい。その人のまざなしが感じられる写真がいちばん撮る人の力を発揮している。
「いい写真」は、あ!今ここ
私の写真の師匠が最後に教えてくれたのは、「下手なんだからいいと思ったらシャッターを押す。それだけでいい。でも嘘はつくな」。
私は特に写真を勉強していない。レンズのこと、シャッタースピードや露出についてもよくわからない。でも写真を撮るのが好きなのは、この言葉のおかげだ。難しいことは考えなくていい。「あ!今ここ」。それだけ。
noteでもいろんな人がいろんな写真をのせている。
森の深部に届いた光が新芽を照らしている写真。
海から空にぶちあがるロケットの軌跡。
はじめて雲海を見た若き登山家の背中。
今も目に浮かんでくる素晴らしい写真がある。
私はそういうことは忘れない。
何を伝えたい写真か
過度に説明することはないが、表現である以上、何を伝えたいかがわかる写真がいい。それが伝わるように撮る人は何度もシャッターを切っている。「なんか違う。どこか変だ」と思いながら。
写真を選んでいると、「何を伝えたいか」撮る人の気持ちがよくわかるときがある。でも、その思いが写真として表現されていないことも多い。
カメラマンが編集者の意図を理解できてないと中途半端な構図になることがある。編集者の伝えたいものとカメラマンの伝えたいものが混じってよくわからない写真になってしまう。そういう時はきちんと言葉にして伝える。
「花壇にあふれるように咲く花を撮りたいです。これだと俯瞰すぎます。平面的に見えてしまっています」
どう撮れ。こういう構図にしろとは決して言わなかった。それなら自分で撮ればいいとカメラマンは言うだろう。
説明的な写真とは、言葉に出来る写真
noteでは文章と一緒に写真を掲載できる。キャプションもつけられる。言葉と写真の組み合わせで表現できるのはでかい。
写真のキャプションにはふたつある。
1.写真を補足説明するキャプション
2.写真は写真、言葉は言葉で書くキャプション。
1は商品写真などのキャプションである。写真ではわからないサイズや材質などに言及する。
2のキャプションは写真のことに触れながらも別の言葉を書き、写真と言葉の相乗効果を狙う。
どちらのキャプションにも意味があるが、1について、やりがちな悪いキャプションは、写真でわかることを書いてしまうことである。例えば
これだと写真を見ればわかることを書いているだけ。1の方向で書くなら、「朝4時に晴海埠頭から昇る太陽。光化学スモッグでさえ美しく感じる瞬間」など情報を加える。
2のキャプションは、例えば
絵本の挿絵と文章に近いかもしれない。
逆に考えると上の写真はつまらない気もしてきた。言葉で説明できることを撮っているし、朝日だけでなく意地汚くスカイツリーも入れてしまった。どっちが主役か中途半端かもしれない。
写真と文章、違う表現なのだから、それぞれの魅力を引き出し合う関係が理想だ。
アンダーでもいい。ボケててもいい
私は基本的にピントがビシっと来ているパンフォーカスの写真が好きだ。逃げてない感じがする。物や人を紹介する雑誌等は基本的にきちんとピントがきている写真が必要だ(写真集とか芸術的な紹介はその限りでない)。一方でピントを外した写真も好きだ。あえてそういう写真を撮るプロの写真家もいるし、普通の人が楽しむ場合でもかまわないと思っている。そういう写真の方が見えている世界に近い場合もある。父も写真を撮るがピントが外れてると捨ててしまう。でも中には消すのが惜しい写真もあった。あまり決めつけずに選ぶと楽しい。
夕景や夜景など暗所の写真は素人が撮るのは難しい。庭の撮影ではカメラマンに夜景の撮影を依頼することも多かった。「今、見えているように撮ってください」と新人の頃言ったら、カメラマンに苦笑された。カメラで「見えているように撮る」にはテクニックがいる。取材時はカメラマンと二人三脚で行う。庭の撮影は時間との勝負。私はカメラバッグや三脚を運び、レフ板という白い反射板を使い影の強い所に光をあてるのを手伝った。カメラマンに編集意図を伝えながら写真を撮影するうちに、人間の目とレンズではずいぶん見え方が違うんだなと驚いた。
夜景を撮る場合、人間の目で見えているよりずっと早く、日が沈む前にスタンバイをする。構図を決めてカメラを三脚に据えておく。「え?まだ早いんじゃない?」というくらいからシャッターを切り始める。日が落ちるまであっという間だがたくさんシャッターを切っても使えるのは、1、2カット。そのくらい一瞬のことなのだ。
今は、一般の人もデジカメの補正機能できれいに撮れるようになったけれど、私には明るすぎるように思う。個人的にフラッシュを使ったことはない。だったら暗い方がいい。陰影礼賛。ピントがずれていても、アンダーでも、いい写真だと自分で思ったら大切にしてほしい。
そんな風に私は私なりに考えて写真を見たり、撮ったりしている。
編集者を10年以上しながら、写真について考えたことを言語化してみました。素人の素人による、写真のことがよくわからなかった昔の私のような人へ向けた言葉なので、写真に詳しい人から見るとおかしいところも多いかもしれません。色んな写真への思い、コメントいただけたらうれしいです。少しでも写真を撮ること、見ることが楽しくなる人がいることを願って。
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「#未来に残したい風景 」サントリー後援受賞作
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