mother's memory No.2 久しぶりの家庭サービスだよ。
五月二十一日
父の会社の落成式があった。十年以上働いてきた人に賞状と記念品がわたされるのだ。私の父も、もう十何年もたつので賞状をもらった。記念品として置時計だった。スマートな、とてもきれいな時計だったが、心の中で「これからも会社へ遅れんと、きてほしいためかな」とも思ったが、そんなこというとおこられるかわからないので、やめておいた。
五月二十四日
朝の九時ごろ、北海道のおじさんが来なしたと、言っていた。おみやげに、おせんべいと兄のカバンをもらった。まえには、私と妹の紙入れを送ってもらったし、兄弟は、もつべきだと思った。
五月二十五日
夜八時ごろ、多栄子ちゃんと友枝ちゃんが、
「単語帳に、どうかくんにゃ」と、聞きにきた。「私もしらん」と、言っていたら、兄が「どりゃ、ちょっと見せよや」と、言ったのでしめたと思って、聞きに行ったら、「ここ、ぺージで」とおしえてくれた。
ごくろうさんに、上野から来たと思って、気の毒に言ったんかもしれない。
私が、「絵かいてしまったか」と、聞いたら「まだ、三分の一しかかいていないと言っていた。私も屋根しかぬっていなかったので、いやになってしまった。
夜十時までかかって、やっと書き上げた。
五月二十六日
ぎりぎりまで、英語の宿題をやっていて、もう五分前と思ったとき、家をでた。
走り続けで、もう乗れるだろうと思ったとき、「ハッ」とした。いっしょうけんめい描いた図画をわすれたのだ。いちもくさんに走って家へとりに帰ってまた走ったが、とうとう乗れなんだ。今日遅れるともう二へん目やと、思っていやいや歩いていたら、西岡先生がオートバイに乗って来たので、乗せてもらった。
オートバイに乗ったのは、生まれてはじめてなので、ヒヤヒヤしたがとてもいい気持ちだった。
五月二十七日
しもさんのおじいさんが、朝私一人の時に電気料を取りに来た。「だれもいません」と、言えばいいことを、タンスの引き出しからさいふを出して、中を見たら、こまかいのがなかった。
「これで取ってください」と言って、千円さつを出したら、もう少ししか時間がないのに、さつ一枚一枚かぞえているので、いらいらした。
あとのしまいに、「こまかいのは、ないけの」と、言ったのでしかたなく、カバンからちょきん通帳やお金のはいっているのを出してきて、たたみ一ぱいにひろげたが、めんどうくさいので「あとでもっていきます」と、言った。
カバンを広げたまま、学校へいったらしく母が帰って来たときは、びっくりしたそうだ。
だって、たたみのまん中にカバンを広げたり、そこから貯金通帳はみだしていたからだ。
母は、だいぶ心配したらしい。
タンスの中を調べたりしたが、何も紛失したものはないし、芳美ちゃんがお金を出すとも思わんし、お父ちゃんにいうたかって、おこられるだけ、もうこうなっていたの、だまつていようかとおもったんやしと、言っていた。
これを聞いてこれから気をつけようと思った。
五月二十八日
今日夜は、ちっともおもしろくなかった。「茶わんのわれたのをかぶせられたからだ。それはずっと前のこと。あと十分でおもしろいテレビがはじまると言うので、妹と二人ではりきってかたづけている時、私からうまくごまかして、ちゃわんを洗わしたのがいけなかったのだ。
「いやん、われた」と言ったくせに、今はといったら、「われてたんにゃ」。これせんもんだ。
このことばに、とてもはらたった。
これが妹だと思うと、いやになってしまった。
六月七日
社会のテストとてもわるかった。
「今日、両親学級だというのに、なんということだろう」と思ったのに、兄の学校の方と同じ日になったので、母は福井へ行ったので、たすかった。
もし。私のとこへ行っていたら、ひどくおこられていただろうに。
六月八日
朝、大失敗をした。社会のテストを机のひきだしの奥へ入れておいたら、兄に見つかって「これから夏休みまで、テレビ見るな」と、怒られてしまった