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【SS】わたしの『忘れ残りの記』 3/3完結 花の文学三人娘
一冊の本が、人生を思いがけない方向に導くことがある。
私の場合、吉川英治の『忘れ残りの記』がそうで、この本をきっかけにいろんな場所に行き、いろんな人に会った。
恥ずかしがりやで口が重い私にとっては、思いがけない素晴らしい体験ばかりだったけれど、私には直木がいる。
英治の研究はひとまず終わりにして、そのしめくくりとして吉川英治文学賞の座談会に参加することにした。
このときの受賞作は赤川次郎さんの『東京零年』。不思議なご縁はとうとう大作家・赤川次郎さんに繋がったのだ。
座談会当日、空は雲っていて肌寒い。いつもなら二俣尾駅まで行き、記念館まで歩くけれど、この日は青梅駅からバスで向かった。10人ほどの乗客の半分が記念館近くの停留所で下車する。
座談会の会場は旧吉川邸のお座敷二間。中に入るのは2回目だった。時間があったので別館の展示室を見学して戻ると、20人くらいが集まっていた。土間側はもう埋まっていて、私は書斎側のスミに陣どった。
エイメイさん(吉川英治の長男の英明さん)の案内で、赤川次郎さんが登場した。そのあとに出版者の方、記念館の新旧学芸員さんが続く。
まずエイメイさんが挨拶した。多忙を極める赤川さんのアポを取るのは難しく、授賞式の会場でエイメイさん自ら座談会をお願いしたそうだ。
間にひとり挟み、赤川次郎さんは私の目の前に座った。お顔がよく見える。知識が豊富で一見取っつきにくそうだけど実は面白い、大学の先生にいそうなタイプだ。
講演が始まった。さすが話すことに慣れている。メモをとりながら、合間に似顔絵を描いた。
講演の途中、地元の防災無線が流れた。近所の川に熊が出たらしい。
熊!?
会場に緊張が走る。
「熊ですか。早めに終わった方がいいのかな、それともここにいた方が安全かな」
赤川さんがほがらかに言うと、はりつめた空気は溶けて消えた。赤川さんは時間ぴったりに話し終え、続いてサイン会と撮影会がはじまった。
座談会の案内にはお好きな本や色紙をお持ちくださいと書かれていたので、私は『校庭に、虹は落ちる』を持参した。高校生のときに装丁に一目惚れして買った本だ。
並ぼうとして、しまった!足がしびれて動けない。赤川さんの近くに座っていたにもかかわらず、出遅れて列の後ろの方に並んだ。
「あなた、絵が上手ね!」
前に並んでいた50代くらいの女性が話しかけてきた。講演中に似顔絵を描いているのを見ていたという。絵を描く仕事をしているのかと聞かれて違うと答えたけれど、そう見られたことがとても嬉しかった。
女性はとてもエネルギッシュでパワフルな人で、文体でいうと桐島洋子さん。なので、ヨーコさんと呼ぶことにする。
ヨーコさんは読書は好きだけど、赤川さんの作品はあまり読まないという。かの有名な赤川さんに会える機会は滅多にないので、はるばる青梅までやってきたそうだ。ちなみに吉川英治は1冊も読んだことないという。ドンマイ英治。
「じゃあ、お先に」
おしゃべりをしているうちに、ヨーコさんの順番になった。ヨーコさんは鮮やかなピンクの手帳を開くと赤川さんに差し出した。太平洋の洋に子供の子です、と伝えると赤川さんはマジックでサラサラと書く。
サインって自分の名前も書いてもらえるのか。私は書類以外に誰かのサインをもらうのは初めてで、ヨーコさんがいいお手本になってくれた。
手帳をうけとったヨーコさんは、今度はガラケーを出版者の人に渡し、赤川さんの隣でポーズを決めた。
カシャ!
懐かしい音が響いた。担当者さんはガラケーをヨーコさんに返して、確認してくださいと言った。確かに言った。
バッチリだわ!ガラケーを見てヨーコさんは答えた。確かにそう答えた。
いよいよ私の番が来て、お次の方どうぞと呼ばれて赤川さんの前に座った。
「どうもお待たせしました」
赤川さんは気遣ってくれた。私はどうしようか迷ったけど観念して『校庭に、虹は落ちる』を預けた。
「これは…ずいぶん懐かしい本をお持ちいただきましたね」
「はい…」
名前の漢字を答えて書いてもらっている間、私は気が気じゃなかった。ヨーコさんの前に並んでいた5人は赤川さんのファンで、今回受賞した『東京零年』にサインしてもらっていた。私、とんでもないマナー違反をしているんじゃないだろうか。
「どうぞ」
ありがとうございますと本を受け取り、赤川さんの隣に並んで笑顔を作った。後悔と反省が写りませんように。
もう一度お礼をいって廊下に出ると、ヨーコさんが待っていた。せっかくだから、一緒に帰ろうと誘われた。
大きな玄関を出て外の空気を吸って少し気持ちが軽くなったその途端、
ギャー!
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