見出し画像

【SS】わたしの『忘れ残りの記』2/3 文学散歩で逢いましょう

『忘れ残りの記』をきっかけに、東京・青梅市にある吉川英治記念館を定期的に訪ねるようになった。

記念館では定期的にイベントを催しており、なかでも「文学散歩」という英治のゆかりの地を巡るフィールドワークには2度参加した。

はじめての文学散歩の舞台は横浜で、桜木町駅の前に集合した。集った人たちは男性が多めでみんな年上だった。まずは新旧学芸員さんの自己紹介、続いてお散歩の概要の説明があった。近くに立っていたシルバーヘアのメガネをかけた男性が呼ばれた。まさか参加者も自己紹介するのかと思ったら

「こちらが吉川英治氏のご長男の、吉川英明さんです」

えええ!

衝撃のスペシャルゲストの紹介だった。英明さんは『忘れ残りの記』に登場する。庭の木に縄でくくりつけられたり、鮎の小骨を食べたがったり…いろいろなエピソードが載っている。そうかあの子がねぇ、すっかり立派になって…としみじみしてしまう。

スペシャルゲストの自己紹介も終わり、新しいほうの学芸員さんの先導で横浜を歩きはじめた。

「エイメイさん」

時折、学芸員さんが英明さんに呼びかける。こういう資料が残っているけど、お父さんからなにか聞いていないかとか、こういうときお父さんはどうしてたとか。

それに対して英明さんが、それは聞いてないとか、それについてはこう言ってたとか答える。いいな、こういうの。吉川英治の一番近くにいた人から聞く本人の言葉。まるで英治と一緒に散歩しているようだ。

お名前の読みはヒデアキさんだった気がするけど、どうやら通は「エイメイさん」と呼ぶらしい。そう呼ぶ声が他の参加者からもちらほら聞こえてくる。

吉川英治には5人の子供がいて、最初の妻ヤスさんとの間に養女の園子ちゃん、二番目の妻、文子さんとの間に英明さん、英穂さん、曙美さん、香屋子さんがいる。

第二次大戦中、空襲を懸念した吉川一家は青梅市に疎開した。園子ちゃんだけは勤労奉仕のために東京に残り、東京大空襲に巻き込まれて亡くなった。

『忘れ残りの記』には、英治と文子さんが焼け野原となった東京へ園子ちゃんを探しに行く姿が描かれている。何度読んでも悲しくて悔しくて涙が出そうになる。私は園子ちゃんがどんな人だったのか尋ねたいけれど、尋ねる勇気はない。

ゆかりの地を一通りめぐり、桜木町に帰ってきた。

私も英明さんとお話ししたい。ススス~っと近づいて、もじもじしながらエイメイさんと呼びかけた。エイメイさんは「はい、どうしました?」と振り向いた。

英明さんというお名前をつけたのは菊池寛さんだって本当ですか?これは『忘れ残りの記』で得た知識だ。

「えぇ、そうなんです。菊池寛さんにつけていただいたんですよ」

もう何度も同じことを尋ねられているだろうに、エイメイさんは笑顔で答えてくれた。歴史上の人物と話せたような不思議な気持ちになった。

お願いして、一緒に写真を撮ってもらった。撮り終わってから、しまったと思った。せっかく『忘れ残りの記』を連れてきたのに、リュックサックにしまったままだった。せっかくだからスリーショットにすればよかった。

また今度撮ってもらえばいいや。文学散歩は年に2回ある。次のお楽しみができたところで、みんなにお礼をいってその場をあとにした。

二度目は亀戸と両国周辺だった。テーマは関東大震災。英治もものすごく怖い思いをしたらしく、以来少しでも揺れると誰よりも速く表に避難したという。津波でんでんこ大事。

ちょうど新聞記者をしていた頃で、幸いなことに怪我はなく家族も無事。被災者に牛飯を売っていたというエピソードも残っている。英治も被災したはずなのに、よく牛飯を作れたなと思う。作家としての才能が開花していなければ、吉川屋という牛丼屋が誕生していたかもしれない。

今回もまず最初に新旧学芸員さんの自己紹介と散歩の概要、続いてスペシャルゲスト、エイメイさんの紹介。

えええ!

とどよめく参加者。おやおや、どうやら今日は初参加の人が多いようだなんて、上から目線の私。

実はこの頃、他の人に夢中だった。その名は直木三十五。誰それ?なんて言わないで。直木賞の直木三十五だ。吉川英治とも交流があり、『宮本武蔵』執筆の立役者だ。

記念館に通って気づいたのだ。私と英治は気が合わない。『かんかん虫は唄う』は1ページで撤退。『草思堂随筆』は粘ったけど、説教くさくてなんかイヤ。当時の様子を知る上で貴重な資料だからまたいつか読むだろうけど、今はいい。

なので今回は、直木にまつわる質問を用意してきた。散歩の中盤で、またエイメイさんと呼びかけた。

お父様が杉並区の馬橋というところに住んでいたときのこと、なにか聞かれていますか?

ここから先は

2,414字

¥ 100

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらチップで応援してみませんか?