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【SS】わたしの『忘れ残りの記』1/3 いろいろ人生

吉川英治の『忘れ残りの記』を小脇に抱えて、山を一気にかけ降りる。行き先はふもとのスタバ。アルバイトの前に少しだけでも読みたい。空は澄みきっている。寒いけど、しばらく走ればちょうどいい。

ほんの少し前まで、吉川英治なんて名前も知らなかった。小説『宮本武蔵』を書いた人といわれても、だからなに?って感じ。でも、宮本武蔵を主人公にしたドラマやマンガはたいてい、吉川さんの小説が原作になっているらしい。

スタバのガラス扉を開けると、中は賑わっていた。窓際のひとりがけがひとつだけ空いている。オーシャンビューの特等席。ラッキーだった。

吉川さんには席で待っててもらって、抹茶クリームフラペチーノを買ってきた。バイトまでまだ1時間もある。わくわくしながらページを開こうとした瞬間、

「ねぇ、あなたご覧になって」

隣の席のマダムが外を指差す。そこには潜水艦が停泊していた。

「あの潜水艦はね、ついさっきこの港に着いたばかりなのよ。」

マダムは80歳くらいだろうか。潜水艦なんてこのあたりじゃ珍しくない。一人のようだけど、観光客だろうか?

そうですか、と相づちを打つとマダムは続けた。

「私、はじめて見たわ。潜水艦が方向転換して停まる姿。」

マダムは少し興奮しながら、こうやってねと身振り手振りで潜水艦の動きを再現してくれた。なるほど、それは確かに珍しい。動いている潜水艦は私も観たことがなかった。

それはラッキーでしたねと伝えると、マダムはゆったりと視線を潜水艦に戻した。さあ、次は吉川さんのお話を聴こうと再び本に向き合うと

「私ね、つい最近主人とこちらに越してきたの。長く○○に住んでいたのですれど」

そうか、お引越ししてきたのね。○○は私でも知ってる高級住宅地。そういえばマダムの話し方は、とても上品だ。

○○ですか、いいところですね。私は行ったことないけど、とは言わないでおく。吉川さんは行ったことあります?退屈していると悪いので、話題を振ってみる。

マダムは先日まで暮らしていたという○○の家について語りはじめた。庭には大きな樫の木が生えていて、マダムのお気に入りだった。天気のいい日はこの木の下に集まって遊び、お茶を飲む。ハイスペックな夫と優秀な子供達に囲まれて、赤い屋根の大きなお家で幸せに暮らすマダムを思い浮かべる。絵に描いたようなステキな人生。

昔話は聞きたくないという人もいるけれど、私は好きだ。昔はあって今はない場所や時間を追体験できる。素晴らしいじゃないか。

住み慣れた場所を離れるのは寂しかっただろうけど、ここも案外いいところだ。ふらっと歩けば海が見えるし、安くておいしいお店がたくさんある。気に入ってくれるといいな。そしてご主人といつまでも幸せに暮らしてほしい。

話題が家族に移るとマダムの表情は少しずつ険しくなっていった。あれ?どうしたの?お子さんはみんな優秀でご活躍のようだけど。あ、わかった。お仕事が忙しくてなかなか会えないとかそういう感じね。あれ、違う。それならいったいどうしたのだろう?

しばらくの間をおいて、マダムが放った言葉に、私はびっくり仰天した。

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