百人一首・百人秀歌の考察3

考察2で触れた「1:6」の法則をいま一度振り返っておく。

【春の植物】梅1首:桜6首(百人一首。百人秀歌は7首)

梅は紀貫之の詠んだ「人はいさ心も知らずふるさとは花ぞ昔の香ににほひける」。桜は咲く桜3首(百人秀歌はプラス1首)「いにしへの奈良の都の八重桜けふ九重ににほひぬるかな」「もろともにあはれと思へ山桜花よりほかに知る人もなし」「高砂の尾上の桜咲きにけり外山の霞立たずもあらなむ」(「山桜咲き初めしより久方の雲居に見ゆる滝の白糸」[百人秀歌])と、散る桜3首(散る桜はいずれも「花」と表記)「花の色は移りにけりないたづらに我が身世にふるながめせしまに」「ひさかたの光のどけき春の日にしづ心なく花の散るらむ」「花さそふ嵐の庭の雪ならでふりゆくものは我が身なりけり」。

【秋の植物】菊1首:紅葉6首

菊は凡河内躬恒の詠んだ「心あてに折らばや折らむ初霜のおきまどはせる白菊の花」。紅葉は山に映える紅葉3首「奥山に紅葉踏み分け鳴く鹿の聲きく時ぞ秋はかなしき」「このたびは幣もとりあへず手向山紅葉の錦神のまにまに」「小倉山峰のもみぢ葉心あらば今ひとたびのみゆき待たなむ」と、川に散る紅葉3首「ちはやぶる神代もきかず竜田川からくれなゐにみづくくるとは」「山川に風のかけたるしがらみは流れもあへぬ紅葉なりけり」「嵐吹く三室の山のもみぢ葉は龍田の川の錦なりけり」。

私見では、梅は一条院皇后・定子、桜は定子のサロンの隆盛と若くして命を落としたことの象徴で、菊は後鳥羽院、紅葉は後鳥羽院が鎌倉時代初期に和歌によって日本文学界を盛り上げたことと承久の乱後に隠岐に島流しされたことの象徴である。桜も紅葉も「嵐」に見舞われる。

「花さそふ嵐の庭の雪ならでふりゆくものは我が身なりけり」

「嵐吹く三室の山のもみぢ葉は龍田の川の錦なりけり」

嵐は政局の変化に伴って降りかかる試練を象徴しているのか。

話は変わって、別の「1対6」。

【女房の人数】

中宮定子の女房一人:中宮彰子の女房六人

定子の女房は清少納言、中宮彰子の女房を桜や紅葉と同じように二つに分けるとすれば、年長組と年少組か。生没年不詳の人が多いがおおよその年は推定されている。

年長組:和泉式部・紫式部・赤染衛門

年少組:大弐三位・小式部内侍・伊勢大輔

さて、これに加えて新古今和歌集に採用された、中宮定子(一条院皇后宮)と中宮彰子(上東門院)の歌の数を挙げてみる。

【新古今和歌集に採られた歌の数】

中宮定子1:中宮彰子5

彰子の歌がひとつ足りない^^; ということで、強引に付け加える(え?)

百人一首には彰子が返歌を詠んだ歌が一首入っている。自身の女房の伊勢大輔の歌である。宮中に奈良から持ってきた八重桜が移植された時に突如歌を詠むように言われた、当時女房としては新人だった伊勢大輔がドキドキしつつ、周囲はハラハラしつつ即興で詠まれた、

いにしへの奈良の都の八重桜けふ九重ににほひぬるかな

の歌である。これに彰子は歌を返した。

九重ににほふを見れば桜狩り重ねてきたる春かぞと思ふ

この歌を足して6、ということで・・・・・・

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