藤原師輔と村上天皇[百人一首・百人秀歌の考察]

今回の記事は「百人一首・百人秀歌の考察1」の続編になる。百人一首の方だけに入っている後鳥羽院、順徳院は親子という明確な関係があるのに対して百人秀歌の方だけに入っている一条院皇后宮(定子)、権中納言国信(くにざね)、権中納言長方には一見何の関係もない。しかし、国信、長方の家系を定子と同じ時代にまで遡(さかのぼ)ってみると密接な関係にあることがわかる。彼ら二人は定子の死後揃って出家した藤原重家と源成信の家系の者たちだったのである。
(長方と撰者・定家の血縁関係が重家と成信の関係を暗示しているのは興味深い)

図にもあるように国信、長方は成信、重家の直接の子孫ではないため遡った家系を別の所に降りていく必要がある。そのときにターニングポイントとなる人物が村上天皇と藤原師輔である。
百人一首(と百人秀歌)には諡号(しごう・送り名)で呼ばれている歌人が何人かいる。その中から天皇を除くと、貞信公と謙徳公の二人になる。他の歌人たちは主に官位を付けて呼ばれているのにこの二人だけなぜか諡号になっている。
理由を考えるにあたり、この二人の関係を見てみると彼らは祖父・孫という関係である。では彼らの「真ん中」つまり貞信公の子で謙徳公の親である人物は?それが藤原師輔である。師輔を暗示するために彼の父と子が諡号になっていると考える。
では村上天皇は?歌は入っていないが重要人物だ。どこかに隠れていないか?
ここで百人一首の歌人の配列を見てみる。最初の二人が天智天皇・持統天皇、最後の二人が後鳥羽院・順徳院、つまり親子が隣り合わせになっている。実はもう一組、親子が隣り合わせになっている。それは紫式部と大弐三位である。この二人の家系を遡ったところに中納言兼輔(百人一首27番)がいる。彼の歌に注目してみよう。

百人一首第27番・中納言兼輔の歌

ここで百人一首の配列をもう一度考えてみる。[百人一首の最初の二首は天皇、最後の二首は天皇]。それをこの歌に当てはめて[最初の二文字は天皇、最後の二文字は天皇]と考えると最初の二文字「みか」と最後の二文字「らむ」は天皇を表わしていることになる。「みか」「らむ」を逆から読むと「むらかみ」つまり村上天皇となる。こんなところに隠されているとは。

百人一首の後鳥羽院、順徳院が親子という縦の関係でつながっているのに対して百人秀歌の一条院皇后・定子と隠された二人(成信・重家)が村上天皇の孫(成信が父方の孫、重家が母方の孫、定子が義理の孫)という横の関係でつながっているのは興味深い。

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