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日々に、小さじ1杯の偶然を。


年始くらいに、ちょっと普段自分では選ばないような本を読んでみたくて、SNSを使ってお勧めの本を教えてもらった。これが案外よくて、もちろん人の好みは様々ゆえ、多少の合う合わないはあれど、本を読むことは、窓をちらりと開けてその外の世界を見るようなことで、へえーこんな窓もあるんだ、こんな景色も見えるんだ、というようなことがあって素直に楽しかった。

適当に人が選んだ他人と結婚するとか、明日からダーツで選んだ街に住むとかのランダム性になると困る(それはそれで楽しいかもしれないけど)が、本くらいなら仮に自分に合わなくても大きな支障はない。たしか少し前に本屋で表紙を中身がわからないようにブックカバーで覆って売り出したところ好評だったとかいう話があったので、まぁ、本というのは確かにこうしたランダム性を気軽に取り入れるのにちょうどいいツールなのだろう。そもそも自分で選んだとしても物語や知識が「どこかに」連れて行ってくれる可能性をもっているわけだし。

もちろん広い意味での社会というシステムの中、そして会社という組織の中にはいるものの、歳を重ねていくにつれて、自分でなんとかできる(しなくてはいけない)範囲が今までよりは広くなってくるということがある。極端な話中学校までは義務教育だから行かなきゃいけないが、高校はそうじゃないし、その先はどんどん自由が増える(一方でまた重ねるにつれて選択肢が減っていくようにもみえてしまう≒実際そういう側面もある、のだけれども)。

広くなった何とかできる範囲においては、まぁ、いろいろあれど基本的には自由といっていいだろう。嫌いならピーマンを食べなくてもいいのだ。嫌なら、走らなくてもマラソン大会はない。読書が嫌なら読まなければよい、なぜなら読書感想文の宿題だってないから。苦手な友達とは別にクラスが一緒になるわけでもないのだから、距離を置くことだってできるし、その口実のレパートリーを着実に増やしながら生きてきた。もちろん不作為だけでなく作為の選択もできる。

それに、なんかこうそれなりに生きていれば、徐々にこうしたらああなるんじゃないかという予測の精度が(特に日常を繰り返す範囲において当然)上がってきたりするので(≒学習)、自分が望ましくない状況におかれることは、まぁ日常レベルではそれなりに避けることができると思う。もちろん、事故や事件に分類される予測できないアクシデントはあるけれども、少なくとも望ましい結果になる可能性が高い方に高い方に、と行動することはできる。

であれば、この自由な領域において、敢えて苦しい道を歩むことはない、と思うのが合理的だから、前述の予測可能性のところとあわせて、何かイレギュラーがない限りは比較的順調に、穏当に日々を送っていくことが僕たちの生き残りゲームの生存戦略として指向されがちだろう。

もちろん、これはかなり恵まれた話だとは思う。明日食べるものの心配をしなくてもよくて、25日になったらこれくらいの給料がはいって、この週には家賃とかカードの引き落としでこれくらいのお金が口座から減って、家をこれくらいの時間に出てあの電車にのればこれくらいの時間に会社についての予測がたって。まぁ、そんな大層な話じゃなくても、たとえば、自分が好きな音楽を聴いて、好きなYoutubeの動画を見て、いつもの友達とお気に入りのあそこのレストランでいつものメニューを食べて、、、みたいな。ああ、なんて幸せな日常。この電車がどこに行くか毎日びくびくする必要もないし、口に合わない食べ物が出てくる心配をすることもない。これがすなわち、ある種のConfort Zoneなのかも。



よく「Confort Zoneを出ないと成長しない」とかいう自己啓発めいた言説があるが、個人的にはそうした言説をうのみにしてやすやす離れたり、崩してしまう必要はないと思う。だって、自分でそれなりに頑張って築き上げた幸せな日常じゃないか、と。

一方で、まぁたしかにすべてがすべて予測可能(そんなわけないのだけど)と思われる状況もたしかにちょっと牧歌的すぎるかもしれない。なので、なんかこう、つまみ食いみたいなものとして、娯楽の選択をたまに他人に委ねてみる、というのはちょうどいい塩梅なのではないかと。所詮もともと娯楽なので、別に何が起こるわけでもないし、かといって普段と違うものを読んだり観たり聴いたりすることで、そこから普段と違う世界が見えるかもしれないし、場合によっては広がるかもしれない。

ちょっと極端なのだが、そういうことを思っていた2023年の秋冬ごろには、近くの文化施設のWebサイトを覗いて、中身は一切知らないけれども都合がいい日の音楽のコンサートなどを適当に申し込んで仕事終わりに行ってみるようなことをやってみたり、行き先を調べずに目のまえにあるバスに乗ってみたりもした。

ちょっとしたくじ引きの感覚

その延長が、冒頭の本の選択を他人に委ねる(正確には最終的に薦められたものを読む・読まないは自分次第ではある)、ということだった。別にこれは適当に本屋に行って、ランダムに手に取った本を読んでみる、とかでもいいけど、どうしてもいつも行く本屋だったり、表紙の感じだったりで自分の意思の介在を避けることは難しい。

そういってしまえば、友人関係だって自分の選択の結果だからバイアスもフィルターもかかっているだろうし、こういう偶然性をとりいれよう、と行動することそれ自体が自分の意思であるのだけれど。まぁ、何事も完全な偶然なんてない。いや、もしかするとあるいは何事も完全な偶然なのかもしれない。

そのあたりはちょっとむずかしいな、とおもうが、いずれにせよ、いつもと違う選択・行動の「結果」は、少なくとも、ランダム性を普段よりやや多めに孕んだものとなるだろうとはいえる。

別に自ら自分の居心地のいい領域を敢えて崩すことはないにせよ、小さじ1杯くらいの偶然性を意識的にトッピングすると、ちょっと楽しく、ちょっと豊かな毎日になるかもしれないな、と思ったし、実際楽しかったので、たとえば誰かに勧められた本を何も考えずにとりあえず買って読んでみる、というのもありかもしれない、ということをシェアしたかった。あなたがこのNoteにたどり着いたのも、いうなれば偶然かもしれないわけですし。

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