暴力:台風:ゾンビ

暴力

時折インターネットで再燃する「いじめられる方に原因がある」という論をご存知だろうか。この論はいくつかの主張に分割できる。

  • 犯罪において、被害者は原因や責任を持つ

  • 犯罪において、被害者は原因を持つが責任は加害者にある

  • 犯罪において、加害者を排除すれば犯罪は発生しない

これらについて、私は2つ目の「犯罪において、被害者は原因を持つが責任は加害者にある」以外には明確に偽を唱えている。

1つ目については、被害者に責任はない。愚行権が存在する。3つ目について、さかなクンさんのエッセイでも語られているが、加害者とは得てして加害を求める。被害者個人を求めているわけではない。これは「私の犯罪は正当な報復である」と「権力体制」に主張する愚か者へのカウンターとして機能する。

つまり
「被害を受けたなら体制へ報告しろ」
「文明人に報復の自由は存在しない」
のだ。
「自分を不快にさせた存在を排除する」ことは正しい。
しかし、
「そこが別の人間の権力の場であり」
「権力はルールを制定しており」
「ルールは報復を制限している」

仮に自分がいじめられないようにしなくてはならない場合、自分から許容できないいじめの原因を排除するという過程において、
「被害者に原因が存在しうる」
これは有用ではないだろうか。指導者としては「加害者に指導を行う」という動きをすべきという意見については賛同している。鍵の開いた家なら泥棒に入っていいわけではない。ただ、得てして加害者というのは愚かなものである。そうなると、加害者に制度の中での制裁を加えて「改心」させるよりも、自分の行動を変えるほうが早いこともまた事実だと考えている(私も早口と滑舌の悪さが原因で多少の被害にあったことがある)。

台風

反証の持つ危うさとして、仮に「被害者に責任がない」なら「責任があるなら被害者ではない」が成立してしまうのだ。
テストでカンニングして、他の生徒に殴られる。
これの何処に正当性がある?
ないだろう!
あるはずがない!
あってはならない!

しかし私はカンニングはしない。私は私が正しいと思ったことをするが、
積極的に人を傷つけることはない。
だかこれは忖度ではないのだ!
そう、忖度ではない。
これは忖度ではなく、「対策」ではないだろうか。人を変えるよりも自分を変えるほうが遥かに簡単で、「過去の事例を参照すると、例えば早口や滑舌の悪さ、音痴などは加害の理由になるらしい」とわかれば、その事実は加害者の正当性を担保するのではなく、自分が被害に遭う可能性を減らしてくれる。もちろん、低身長などは、変えようがないし、変えるべきではないと考える。個性捨てたら死んでるのと同じだ

台風が来るから庭の自転車を室内に入れるようなもの、そうだろう。台風を責めてもどうしようもないではないか。ある種、加害者の自由意志、更生の余地、不和の可能性を肯定する文脈ではあるが、どこまでも自己中心的に考えるなら、結局「当たり障りのない」言動を目指すことが良いのではないかと思う。これこそ文明人の嗜みなのではないか。個人の暴力は集団の調和に勝てないからである

ゾンビ

悪とは陳腐なものだ
腐っている。

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