遠くて関係がないというスタンスにどうしても疑問を感じてしまう
オーストラリアと韓国の調査ではウクライナ戦争は「遠い国のできごと」だとする人が多く、支援も少ないという。日本の支援は0.16%という数字がありどう考えてもほぼ何もしていない。
震災の時東京にいた。多くの人がオンタイムで困っていて、宮城では悲惨な状況が聞こえてくる中、自分の思い通りにならないことにキレている女性がいて腑が煮え繰り返ったことがある。
ウクライナは戦争以前から政治の汚職ランキングの高い国で、日本ではあまり聞こえてこないけど、それでも調べると戦時中なのに自己利益追求する卑怯な人は後を断たないことがわかる。
閣僚なり軍部の責任者なり、ちょいちょい更迭されていることを考えるとゼレンスキーの心労が計り知れない。極めて同情する。むしろ政府の中枢に入れてほしいぐらいに思う。
要点はまず、遠い場所で数万数十万単位で人が死のうとも、一般の皆さんは気にも留めないということ。俺だって同類で、アフリカの内戦や政権交代などよく知らないし、知ろうともしない。
高校時代、体育の暴力教師が、子供の頃部落があり差別があったと話した。みんなが無関心だからこの問題が解決しないんだ、というかなり筋違いのことを堂々と話していた記憶がある。人の本質の一部には、遠い場所で苦しんでる誰かになど興味を持たないし、持とうともしないというものがあるのだと思う。
汚職なり、自己中なり、ヘドが出るほどムカつくが、同じくらい自分は痛くないし関係ないからいいもんね、という態度にも嫌悪を覚える。いや、俺もそういうところがあるから震災のように「実は遠くないのに関係ない。自分さえ良ければ良い」というのが気に入らないのだと思う。
歴史を本格的に学べばわかることだけど、権力者の中には「自分の国が滅びたって外国からガッポガッポ儲けさせてもらって、亡命もできるからしゃぶり尽くしていいもんね」というクズが結構な数出る。
言えることは、戦争なり国家存亡の危機なり、どんな苦境やマイナスの状態でもクズはその態度を変えないということ。こんなヤツが目の前にいたら・・・例えばゼレンスキーの立場だったら、俺は怒りで脳の血管が切れて死んでしまうと思う。
戦場では略奪行為が当たり前に行われてきた。何千年も。ウクライナの首都キーウからほど近い街でも、戦争初期の頃にロシア兵による四肢切断の拷問を一般市民にしたり、別の街では一般車両が走る道路に機関銃を撃ち放つということもあったようだ。
戦争の悲惨さを訴えたい気持ちは全くない。目を逸らしたければ逸らしていいだろうと思う。目の前の物事ではないし。俺が気になるのは人間の性根の醜さと、そういう人間をどうにか処理できないものか?という夢想。
2500年前の中国でも、2000年前のローマでも口先だけで偉そうなことを言う評論家をディスる実務家の話がある。安全圏から事実や数字を並べて分析して、物事を知っているぞ!と大口を叩く人格もまた鳥肌ものだ。行って何がわかるわけでもなく、断片の中の断片の一部を経験することにしかならないけども、せめて卑怯な連中と同じ立場、スタンス、やり方はしたくないと心の底が言っている。
ウクライナで生活をする動機のひとつ。
寄付&応援の募集しています↓