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「馬鹿になりたい心理」〜荒川隆太朗さんインタビュー01【コラム#053】

例えば、ある日、あなたは友人に
「トランプ大統領は世界を救う救世主だ」とか
「能登震災は人工地震によるもので、この地震を作為的に作り出されている」
と言われたらどう思うだろうか?

そんなわけないとあなたは言う。

だが、実はこれらの情報を「心から信じている」人がいる。彼らは嘘か本当かわからない真偽不明の情報を持ち出し、これらが真実であると論証する。もしかしたら、本当の本当に彼らの言う通りなのかもしれない。

「馬鹿な人がいるもんだ」、とあなたは少し冷笑して見せる。

でも、ちょっと待って。

あなたのその冷ややかな笑いの矛先は、あなた自身にも向いているかもしれない。

そういえる理由を「馬鹿」の本当の意味もわからない僕に松原さんは明らかにしていった。


<フェイクニュースを信じたい心理>


インタビュアー 荒川隆太朗さん

荒川:先日の能登での震災直後、NHKニュースより「フェイクニュースにお気をつけください」という趣旨の記事が出ました。また、少し前のアメリカの大統領選挙では陰謀論を流布するQアノンと呼ばれる集団が話題になりました。真偽不明の情報に直面した時に、人は単純に嘘によって騙されているのか、嘘を嘘とわかって信じたいのか、この辺りの人間心理、あるいは集団心理はどういうものなのかお聞きしたいです。

松原さん:「馬鹿なだけじゃないですか?」で終わらせたくなる自分もいますが…笑。

荒川:そこをなんとか…笑。

松原さん:そうですね…。まず、心理の角度も様々ですが、中でも「心の状態」を入り口にしましょう。「心の状態」が地に足のついたニュートラルな時、つまり、自分の持っているもので、自分の求めていることを満たすことができている時、人は「これでいいぞ」としか思いません。

逆に持っていないものを使わなければならない状況に立たされたり、持っているものは使えているけど自分の求めを満たせていない状況に立たされていると「心の状態」は不安定になったり、浮き足だったりします。すると、「潜在的にこれじゃあかんぞ」という状態に慢性的に立たされることになります。例えば、自分を活かせない仕事をやっている時、持っているものとやっていることが一致しませんがそういうイメージです。

このような状態の時の「心の状態」には3つの特徴があります。

1、似たような程度、レベルの「これじゃあかんぞ」な人を見つけて、仲良くなる
2、自分より下の人を見つけて「自分間違ってないぞ」と確認する
3、心と行動が一致している人を見て嫉妬・羨望を感じる

これらは全て根本的にずれているから起こります。

荒川:これらの特徴とフェイクニュースへの反応はどのようにつながるのでしょうか?

松原さん:根本的に何か違っている人は何をやってもにっちもさっちもいかないわけです。そんな現状に対して、人は「自分の力ではどうしようもない状態にある」という曖昧な理解を持ちます。この曖昧な理解のままだと「世の中、自分にはどうにもできない大きな何かが悪いんや」と責任転嫁という解決法を導き出します。問題提起にあるフェイクニュースと比較すると強度の差はありますが、芸能人へのバッシングも身近な例といえそうです。

芸能人の不倫スキャンダルを見て、「あいつ悪いやつや」と怒っている人がいます。でも、「あいつのことどのくらい知ってるん?」と聞くとよく知らんってことがあります。この例の場合、「別にそんなに好きでもない人となんとなく家庭を持ってしまった。やりたくないし、向いてもないけどなんとか専業主婦をやってて、こんなに頑張ってるのに誰も認めてくれない。」みたいな気持ちになっていると、同い年くらいの有名人が不倫して叩かれていると安心しますよね。「そらそうや、悪い奴らや。なんや活躍してる風で(私よりすごいフリをして)私より下やった」と喜べる心理があるんですよね。

根本がずれてしまっている時、「自分にはどうすることもできない」という前提が生まれます。次第に、心が自分の人生のどうしようもない現状に対して、責任転嫁をする準備を整えていくことになります。この準備ができた状態に対して、メディアなどは責任転嫁を用意してくれています。そして、まんまと用意してくれたことに飛びつくことになります。これがフェイクニュースを信じたいところの1番目にあるものかなと思います。

荒川:そのようにお聞きすると「フェイクニュース」を信じたい心理は案外、フェイクも何もないのっぺりとした日常生活の中で生まれていくものなんですね。

松原さん:実は裏側から見た別の、でも近しい話があります。

荒川:どういうことでしょう?

松原さん:意外かもしれませんが「ファン心理」は同じ構造になっています。

一つの見方ですが、アイドルやスポーツ選手に対して、「自分がそうであったらいいのにな」という姿の投影が起こることがあります。アイドルを推している時、実際には満たされていないパートナーとの関係性を忘れたり、スポーツ選手が大活躍して喝采を受けている時に自分がそのような喝采を受けているように誇らしくなる。そういうレベルまで同化していくと「私うまくいってるぞ」という気持ちを擬似的に得られます。

自分の人生でそんな気持ちを得られないからそのような体験が必要になります。その背景には「持っているもの」と「やっていること」の不一致があり、「今更どうにもできない」絶望感がありますが、それを自分の努力によって拭っていくのではなく、上手に拭ってくれて「うまく言ってるぞ感」を与えてくれるものに縋る責任転嫁の構造は同じです。


<頭が良いと嘘は見抜けるのか?>


荒川:フェイクニュースを信じてしまうのは自分の「満たされなさ」の責任を世界にどこかに転嫁したいからだとすると、嘘を嘘と見抜けなくするのは心の問題が大きそうですね。ただ、その一方で、フェイクニュースに騙される理由として、松原さんも冒頭おっしゃっていたように「馬鹿だから」と説明されることも多いと思います。

一般に「頭がいい」と嘘を見抜けると考えられていると思いますが、少し古い例として、オウム真理教にハマったのは東大生や京大生が多かったことから「頭がいい」人ほどオカルトにハマってしまうことがあるとも聞きます。この辺り、「頭の良さ」という観点からフェイクニュースに騙されてしまう背景はどのようにお考えですか?

松原さん:まず、「頭がいい」と「嘘を見抜ける」は分けて考える必要があります。「頭がいい」は備わっているものの性能の話で、「嘘を見抜ける」はある種の技術やリテラシーの話といえると思います。ここではまず「頭がいい」についてお話します。

僕はどうでもいい順に「成績がいい」、「頭がいい」、「賢い」と考えています。「頭がいい」というのは中間に位置し、「賢い」が最も重要です。「頭がいい」と対になるのは「バカ」で、「賢い」と対になるのが「愚か」です。この関係性の並びから言って、「頭がいい馬鹿」というのがいます。

これらの成り立ち、広がりは、「賢い人」から始まり、答えを導く力をつけた「頭のいい人」を育て、それでも、答えを導き方がわからない人がいるので、式や方程式、ルールを用意して「成績のいい人」を育てていったという順番になったとみています。

荒川:それぞれの定義を教えてください。

松原さん:「頭がいい」は答えを導き出せる頭脳があるという意味です。「成績がいい」は方程式があれば答えを出せるという意味です。
「成績が悪い」は方程式をうまく使えない。「バカ」は思考停止です。

「賢い」となると答えが出せる、出せないはあまり重要ではありません。

「賢い」は、自分の求めに対して、自分の持っているものを有効に使える程度のことで、「愚か」は、自分に嘘をつく度合いの高さですね。

荒川:一般的に愚かとかバカという言葉を使う時は計算ができなかったとか、間違いをした時に使われると感じるので、「知能」の領域だと思っているのですが、松原さんの定義だと内面のことも含むのでしょうか?

松原さん:今の問いは「知能」の定義が必要です。「知能」は「賢さ」のさらに下、土台のようなものとして位置しています。例えば、「頭のいいゴリラ」は計算ができるのですが、人間という種は子どもでも計算ができます。これが絶対的な壁、土台の違いです。

大人と子どもでも同じことが言えそうです。すごい計算ができますとか、駅の名前全部覚えてますとか、所謂、「頭のいい子ども」っていますよね。でも、「頭がいい子ども」よりも「頭の悪い大人」の方が経験や知識などの分量が多いので、「人生とは何か?」など、本質的なものの見方や議論を理解できるということがあると思います。

荒川:すると、「知能」は「成績が良い」、「頭がいい」、「賢い」の3つの次元を下支えする前提となる認知能力と見て良さそうでしょうか?

松原さん:そのイメージは外れていませんが、あくまで、今回の話題の流れとしてはそう位置づいていると見てもらった方がいいですね。厳密な定義は議論が残ると思います。

ただ、「前提とある」という点は重要で、それゆえ、「知能」の高さを考える時に計算力や記憶力などは問われません。例えば、トムクルーズは失読症で文字を読めないので、セリフを音声で覚えるというエピソードがあります。この話を聞いてトムクルーズの「知能」が低いとは思わないと思います。むしろ、第一線のハリウッドスターな訳ですから、「役者」としての「知能」が高いと見て良いと思いますし、人生視点で言えば、「賢い」と言えると思います。

記憶力や計算力などが問題になるとしたら、それらが低いことに連動した物事に取り組む際に、自分を運ぶことを明らかに不利なままにしている、ということが問題です。トムクルーズの場合、台本を覚えることにハンデがあるわけですが、音声にしてもらい、演技で結果を出しているので、「賢い」と思います。それが、「字読めないしやりません」「役者なんてできません」ってなったら台無しですよね。これが「愚か」です。

なので、自分が持っている優れているものも、劣っているものも、それをなぜ持っていて、どう使うと良いのかを理解できていることが重要だと思います。

荒川:自分が持っているものの活かし方に「賢さ」が現れるということでしょうか?

松原さん:そうですね。例えば、サリンを作った人は化学に長けていると思いますが、人を殺す使い方は将来的に自分を台無しにするので愚かじゃないですか。ここでは、人をどれだけ殺したかが問題ではなく、将来的に自分を台無しにしたことが問題です。

あと、変な例ですが、忍び返しに刺さって倒れている人がいるというニュースを最近、目にしました。よくよく聞くと倒れていたのは下着泥棒で、そのまま救急車で運ばれて逮捕されたというお話でした。

本心から下着を求めているなら、それ自体はただの性質です。何が「愚か」かというと、忍び返しの知識をつけて、対策も考えて、血まみれになることも、捕まることもなくやり遂げられず、人生を台無しにしたことです。忍び返しで傷までついて、捕まっているというのは結構、愚かじゃないですか。

荒川:ですね…。

松原さん:以前、刑務所に入った経験のある実業家がこんなことを言っていました。刑務所にいる人はそんなに悪いやつばかりじゃないと。ただ、みんな馬鹿で何をどうやったら生きていけるかわからず、しょうがないから物を盗ったりしているという話がありました。一理あるなと思います。

荒川:確かにそうかも、とも思いますが、一方で、そもそも法を犯すような心からの求めてしまうこと自体が「愚か」な気もしますが、その点はどうでしょうか?

松原さん:もし、その人にとってその求めが欠かせないんだったらやるしかないって感じです。ただ、その求めの一位だけが突出とかはないんで、求めているものが10個あるとしたら、法に反するものから今直ぐにできるものまで幅広くあると思います。仮に法に反するものが最重要だったとしても、「今直ぐできることからしたら?」と普通に考えられます。万が一、捕まってあと全部、全滅になると台無しなので。

荒川:「賢さ」についてわかってきました。ここで話を戻して、「頭のいい馬鹿」とはどういう状態でしょうか?

松原さん:「答えを出すこと」自体を目的にした判断は愚かな判断になることがあります。なぜなら、答えを出せないことや答えを出すべきでない時があるにも関わらず、盲目的に「答えを出せることが良い」と考えているからです。

このような愚かな判断をする人は「頭のいい馬鹿」と考えていいと思います。「答えを求められて答え出せることが正義です」という人は「答え出したら給与いっぱいあげるよ」とか、「みんなから評価されるよ」とか、それらの「良い理由」によって自分が馬鹿でいることを正当化してきたにすぎないのです。

荒川:すると、フェイクニュースや新興宗教は答えがないとか、不確実な時代と言われる中で、答えを出せる方法を提示しており、これまで答えを出すことで評価されてきた人にとっては的外れな答えであっても、自分だけが知っている答えみたいなものに見えて飛びついてしまっていると考えられるのでしょうか?

松原さん:個別のケースを見ていかないとはっきりとはいえませんが、可能性としてはあるかもしれません。フェイクニュースも新興宗教も一種の思想的な広がりを伴うものであるとすると、「でなさそうな答えを出せるのは俺たちしかいないんじゃない?」という気持ちが自分を安定させていると考えられますが荒川さんの指摘は憶測の域を出ません。

先ほど「頭がいいこと」と「嘘を見抜くことと」は別だとお話しした通り、ニュースの場合は情報を扱うリテラシーが重要になると思われます。一方、個人の人生でいうと「馬鹿」について自分に嘘をつく度合いの高さと定義した通り、外の世界に責任転嫁する都合のいい真偽不明のフェイクニュースやゴシップ、新興宗教などに踊らされている時間は自分で自分の人生を台無しにしているという点で馬鹿です。そして、これらの情報で踊っている時間は自分に嘘をついていることを見ないようにしているに過ぎません。

なので、フェイクニュースにおける馬鹿の本質は「嘘を見抜けない馬鹿」ではなく、「嘘を必要とするような人生を作り出してしまった馬鹿」と考えるとここまでの話を整理できると思います。


<嘘を見抜く術>


荒川:フェイクニュースに騙されてしまう心理という入り口からここまで「頭がいい」を軸に「馬鹿」についてお聞きしてきました。ここでご提示いただいていたもう一つの視点、「嘘の見抜くこと」についてお聞かせいただけますか?

松原さん:判断する物事の距離感によってアプローチが異なります。まず、フェイクニュースから。外の世界で目の届かない範囲の情報を受け取って、それが本当か嘘かを見抜くのは難しいです。基本的にニュースなどはだいぶ割引で見た方がいいと思います。

ニュース系に関してはメディアの基本は裏を取ることだと思います。裏をしっかり取れていることが明らかだ、というところまで確認が取れれば、ひとまず、そういうものだと見ていいと思います。こういうのは先ほどもお話ししましたがリテラシーによる問題が大きいと思いますので、意識的に訓練することで個人差はあると思いますが、伸ばせると思います。

次に個人ですが、こちらもコツや訓練によって解決できます。例えば弁護士の方の話でいえば、被告人は自分に有利な展開を作るために嘘をつくことがあります。その時に用いられる手法はシンプルで地味ですが、じっくり全部を聞いて、矛盾が出てきたら必ず聞くというものです。基礎中の基礎だと思いますが、最初に言っていたことと新しく出てきたことの辻褄が合わないと逐一確認をしていきます。整合が取れればOK、取れなければどこかで嘘をついたことになります。

荒川:どちらも事実を確認する、矛盾に気づくなど、土台としての「頭のよさ」は必要そうですね…。

松原さん:そうかもしれません。また、意識的についていない嘘というのがあります。これは「心の状態」のバランスが崩れたことを見立てるためにも有効なので少し話を広げることになりますが、お話ししておきます。

これに関しては2つのアプローチをご紹介できそうできそうです。

1つ目は長い目でみるということです。理論的にいうとフィードバックするという言い方をします。ある時点で言っていたことを時間が経って結果が出た時に言っていたことの真偽を判断する方法になります。例えば、Aさんが片付けと掃除はめちゃめちゃできますよ、と言いながら1ヶ月後には部屋は散らかり放題だったとか、料理は全然できないですと言いながら毎日、3食きっちり用意していたという事象を見たとすると、この場合、できているか否かは関係なく、この人はどちらも嘘をついたことになります。

ただ、本人もわかっていない場合があるので、1ヶ月経って、フィードバックして、Aは全然できませんでしたと言ったとすると、事実と認識が一致したことになります。なので、1ヶ月前には嘘をついていたことになりますが、現時点では嘘をついておらず正しいことを言っているといえます。

2つ目はコンサルティングの時の関わり方として、その相談者のことを100%信じるという視点と、100%疑うという視点の両方を持ちながら話を聞くことです。

100%信じるのは、その内容の真偽は別として、その人の中でそれが「本当」として位置づいているとすると、その内容はその人の中では「本当」になるので、100%信じるというスタンスも持ちます。

一方で、100%疑う際の視点は、本心に従って生きている人が少ないという現状を考えると「みんな絶対、嘘をついている」という見方をします。

この2つのスタンスを持って話を比較していくと「本当といえる領域」と、「本当にも嘘にもまだ位置付けを持たない曖昧な領域」、「嘘といえる領域」などがわかってきます。コンサルティング習得講座という講座ではこのスタンスの持ち方を推奨しています。

荒川:いずれも修練、鍛錬を必要としそうですね…。

松原さん:そうですね。テクニックもなくはないですが、小手先から入るのはあまり良くないかなと思うので、一旦こんなところでしょうか。

荒川:お聞きしていると嘘を嘘と見抜くことは難しいというより、地道な根気のいる作業だと思いました。一方で、きっちり積み重ねていければ騙されることも少なくなるのかもしれません。その上で、もしかしたら、こういう地道な作業を根気強く続け、どうしようもない現実に立ち返ってくるよりも騙されているとわかっていてもなんとなく自分を救い出してくれる情報に救われたいという気持ちがあるのかもしれません。

松原さん:「馬鹿」のままでいたい人は「馬鹿」のままでいることもできるので、人それぞれどうしたいかでいいと思います。自分自身はどうしたいか、だけ考えたらいいと思います。

最後に少し余談ですが、嘘には種類があります。なんらかの目的を達成するために他人を騙すために作られた嘘。二つ目は自分自身に対する嘘。これは自分では本当だと思っているが、求めていることとはずれている状態です。自分では嘘だと思っていないので、「自分に嘘をついていますよね?」と聞くと「いやいやそんなことないですよ」と否定します。最後がサイコパスとかにみられる必要のない嘘です。ただ混乱させるために嘘をつきます。自分の何かを隠すためでも他人を騙して利用するためでもないので、目的がありません。

荒川:なるほど。嘘について紐解いて、フェイクニュースを陰謀論として見ると1つ目の誰かを騙すために作られたものとしてみてしまいます。しかし、実際のところは3つ目の目的なしに誰かが作った嘘を2つ目の目的で必要な人が必要な形で利用しているという構図もあり得るような気がしました。踊らせている人と踊らされている人がいるというよりは、みんなで一緒にわけがわからなくなりながら情報操作のもとで一緒に踊っているのかもしれません。

松原さん、本日も貴重なお話し、ありがとうございました。



「あなたが辛いのはあなたのせいじゃなくて、裏で支配する悪の組織のせいなんだよ。」
「不倫して家庭崩壊させちゃう馬鹿に比べれば私の人生悪くないわ。」
「「推し」が死んだら死んだ方がマシ。」

あなたがサイコパスでないとしたら嘘には2つしかない。

他人を騙すための嘘と自分を騙すための嘘。

もしかしたら圧倒的に自分を騙すための嘘の方が多いのかもしれない。
そして、自分を騙してしまうから、辻褄を合わせるために他人の嘘が必要になる。

自分についた嘘がまた新しい嘘をつかせて、いつしか、他人の嘘がないとこれまでの人生を肯定できないところまで来てしまった。

そう、本当のところ、僕たちは「フェイクニュース」のような情報に踊らされているのではなく、手近にある都合のいい情報を拾い上げて、踊っていたいだけなのかもしれない。心も体も麻痺させて、何かで踊っている時だけは自分が今日まで「馬鹿」のまま生きてきたことさえ、忘れられるから。

僕たちには2つの選択肢がある。

1つは自分を騙していることを見ないために他人の嘘を借りて、自分を騙し続けること。
もう1つは自分についた嘘に気づき、本当の求めを現実にしていくこと。

「今更どうしようもない」とあなたは思うかもしれない。

でも、騙されたと思って信じてみて欲しい。人生を諦めるにはまだ、諦めるには早すぎるって。

この言葉が嘘か真か、それを決めるのは僕ら自身だから。


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