お金って、すごいや。
≪読み終わるまで約15~20分ほど。≫
*
2021年、振り返ると、心の中はとても激動だったのかもしれない。
3月に父の死を迎え、6月、死神に憑りつかれ、9月、闇に打ち勝ち‥、
#字面だけ見ると頭おかしいやつw
#字面関係なく頭おかしいよ
12月から2月頃までは、お金のことを考えていた。
そして、今、2022年の3月も終わろうとしている。
さて、これからどう歩もうかと、今の自分の人生の何も「ない」状態から「ある」を創っていこうとしている段階。
過去の傷も、過去に培ってきた概念・価値観、そして、お金も。
形のないものから形のあるものまで、一切合切すべて。
去年1年の間に、図書館に立ち寄った私は、この一冊を手に取っていた。
『天才を殺す凡人』
この本を読み、私は、
「天才|凡人|秀才、この間に線を引かなければ、摩擦は生じないのではないかな?」と思ってしまった。
この本の結論も、「みんな天才になれる」というものだった。
分かりやすくするために、天才|秀才|凡人というカテゴリーが作られているが、結局は、「みんな同じ」ということ。
そして、私もそう思う。
「みんなそれぞれ、何らかの天才になれるのでないか。」
「みんな各々が心の対話をして、本当の自分の姿が表に現れたら、「何になろうか?」などと悩まずに、自然と「何者か」になれるのでないか?」
大学時代、そう、ぼんやり考えていた。
そして、やってきた風の時代。
「これからそれが叶うかもしれない!」という
希望の光が、かすかに見え始めてきた。
これは天才の話だけではない。お金持ちに対しても、そう思う。
巷では、全員がお金持ちになれる!と知ってほしくない人がいるという陰謀論めいたものも流れている。
でも、もし、それが本当だとするなら、逆に、私は、なんでそういう人に操られないといけないの?と思ってしまう。
そして、今の何もない状態の私は、さらに、こう思う。
「みんなでお金持ちになりたい!みんなで天才になりたいんだ!」
*
*
去年の3月に父が亡くなり、親族に 1000万円が入ってきた。
そのお金は、父親の妹さんに 500万、母に 500万円相続され、母は、私達兄弟 3人にも分けてくれたので、私の手元には 100万円が入ってきた。
何もしていないのに、急に入ってきた、100万円。
昔から、お金に関して、全くと言っていいほど執着がなかった私は、今回も、引越費用と、自分の身体のメンテナンス代と、生活費で、あっという間に使ってしまった。
昔から、貯金をしようと思っても出来なかった私は、
「月々の収入から1割は残し、残った分を生活費などに充てれば、自ずと貯金できるようになるよ。」
そう貯金が上手な子から聞いても、頭では理解できるのに、どうしても、1割残すということが出来なかった。
それが出来る周囲の人達も、私がなぜできないのか理解できなかっただろうし、私自身も、自分のことを、どこか劣っていると思っていた。
また、「お金の切れ目が縁の切れ目」というように、お金のいざこざがあると、人間関係にもひびが入るという事も耳にしていたにも関わらず、それでも、知り合いからお金を借りてはいけない理由も分からなかった。
まだその頃の私の周りには、「まあ、お前なら、いいよ。」と快くお金を貸してくれる人達も多く、 今思えば、その人たちとは、金銭だけで成り立っている関係ではなく、その言葉の裏側には、人と人との信頼関係がキチンと結ばれているという証拠が隠されていたのだろう。
そんな私だからこそ、学ばされたのかもしれない。
「そういう人達ばかりではないよ。」
「「お金はこうするべき!」という概念がある人もいるんだよ。」と。
地の時代の社会人経験を積み重ねていく中で、
たしかにいた。
お金を借りようとした時に、馬鹿にしてきたり、下に見てきたり、私の人格を疑うような人。
お金は貯金しておかないと不安だと思う人や、お金持ちは意地汚いんだなどと思う人。
私が生まれたときからもうすでにあった、お金という概念。
様々な人に会う中で、その人たちのお金に対する考え方の違いを知る中で、「お金って、なんだろう?」と、思うようになっていた。
そんな中、去年、兄弟間でもお金の考え方が全く違うということも目の当たりにした。
去年の12月頃には、私と母親は、去年の3月に手元に入ってきた 2人のお金が底を尽きそうな事が分かり始めていた。
「2月、危ないかもねえ。」
そう話しながら、しぶしぶ兄弟にお金の工面をお願いしてみることにした。
姉は、快く50万円を貸してくれた。
ちょうど宇宙系やスピリチュアル系のそういった類の動画を見ていたからだろうか。
「多分、これが自分の試練なんだと思う!」と、ちょっとよく分からないことを言いながらw、しかし、前向きな気持ちで貸してくれた。
「50万円もの大金をポンっと渡すことは中々出来ることではないよね、すごいね~!」と、母。
たしかに。目の前の大金を手放す試練は、人によっては、中々に過酷なものだろうな。
そして、兄に「お金を貸して」と言った時は、「まずは他の方法を考えたら?」「何に使ったのか、もし借りるなら、返すまでの見込みや、計画を教えて。」という、とても地に足のついた返事が返ってきた。
ああ。兄は、きっと、今までお金に苦労してきたのだろうな。
その兄の返事に対して、そう思ってしまった。
男社会に揉まれ、お金が無いと、周りの人たちと同じステージに立てないと思ったり、周りに追いつこうと、必死で食らいついていったりしたんじゃないか。そういう想いをしたからこそ、私たちにお金を貸すときにも、シビアになったのかな・・。(単純に、本気度を確かめたかっただけだったかもw)
そう想像し、結局、兄からは、お金は借りなかった。
これはこれで、個人が銀行になれるかも、という気づきにもなったし、兄もきっと、将来のために、お金を貯めときたいだろうしね。
(結局、2月は、町の補助金を頂くことが出来て、泣きながら町に感謝した。#必ず恩返しします )
この2人とのやり取りを終え、 2人のお金に対する価値観の違いを目の当たりにし、私自身も、お金に対して、これからどういう価値観を持っていたいかを考える機会をもらった。
お金の裏側のテーマとして度々出てくる、「愛」。
ちょうど愛についても考えていた私は、母に1つ、質問を投げてみた。
「もし今後、お兄ちゃんが「お金を貸して」って言ってきたら、お母さんはどうするの?」
すると、
「えー、そら貸すよー。」と間髪入れずに返ってきた。
それはもう、剛速球のような返答で、それを直に食らった私は、「ああ‥。これが、無償の愛ってやつなのか。」と、うずくまってしまった。
相手にたとえ、何も与えてもらえなかったり、罵倒されたりしても(今回はなかったけどね。)、相手が困ったときには、手を差し伸べる。
母のその言葉を聞いた瞬間に、無性の愛について、そう悟った。
そこでようやく、昔、母が言っていた「騙すより騙される方がいい。」という言葉が分かったような気がした。
騙す行為は、人を疑い、騙される行為は、人を信じる行為。
たとえ騙されたとしても、人を信じる方を取る。
そういう事なのかな、と。
それと同時に、愛を信じる事が、こんなにも苦しいことなのかと、心の底から思った。だからこそ、簡単に出来ることや、汚いお金を信じてしまう人もいるのかな。と。
でも、その人達の気持ちも分かる。
たくさんたくさん、裏切られる経験をしたら、何かのタイミングで、白から黒へ、表から裏へ、スイッチが切り替わる気がする。愛なんて信じられるか、金が全てだ!という考えが生まれても不思議ではない。
何かの天才になりたくても、そのための才能の芽を出すには時間がかかり、周りからの批評なんかがあると、その度に諦めたくなるだろう。飛びつきたくなるような誘惑もたくさん入ってきて、もしかしたら、葛藤に打ち勝てるほうが凄いことなのかもしれない。
そんな学びを経ながら、お金が「ない」状態をたっぷり味わったからなのか、段々と、お金が「ある」状態にも敏感になっていった。
金持ちさんの心情って、どんなものなのかが気になり、Youtubeでお金持ちについて書かれてある本の要約動画を見たり、キンコン西野さんなど、最前線でお金を上手に回している人達の姿や言動から想像したりしていた。
そんなある日、こんなつぶやきを閃いた。
なぜ、こんなことを思ったのか、正直、私にもびっくりした。
お金持ちの事を考えすぎて、感情移入が出来るようにまでなってしまったのだろうか。
このつぶやきを閃いたのは、友達とお蕎麦を食べたある日のことだった。
「それは、お金持ちが嗜む遊びでしょ!?」
と、お蕎麦を食べながら北欧のツアーの話をしているときに、
#そもそもどんな話してんだって話w
ポロっと言った友達の発言に、なぜだか急に、悲しい切ない気持ちになった。
もしかしたら今までの私も言っていたかもしれない発言に対して、急に敏感になり、お金持ちに対する皮肉のように聞こえたのだった。
友達と別れた帰り道、歩きながら、頭の中をぐるぐるぐるぐる。
なぜ、お金持ちが忌み嫌われるのか。
刷り込み?
だとしたら、なぜ刷り込む必要があったのか。
‥そこまでは、分からない。
でも、現に、変なイメージが拭えていない人がいるのも事実。
そして、私が悲しく感じた気持ちも、確かだった。
信頼している人からの発言だったから、余計にそう感じたのかもしれない。
と同時に、これ以上、この人達と関わっても無駄かもしれないという想いも芽生えた。
今はまだ、素直に聞き入れてくれないかもしれない人達にこちらから何を言っても無駄だと思ってしまうから。歩み寄ろうとしても無駄だと思ってしまうから。信じてほしいのに、疑った気持ちで見られていては、ずっと並行状態だと思ってしまうから。
でも、本当は、心の奥底の部分では、分かってもらいたい。
そんな葛藤した感情を抱えながら、私は、北斎のミュージカルを見に行った日のことを思い出した。
才能の花が咲いた状態で生れてくる人は、往々にして、繊細で、素直で、人の気持ちに敏感な性質を持っている場合がある。
そういった人は、周りの人からの言動に、苦労するようになっているかもしれない。
だけど、本当は自分のことをわかってほしい、仲良くなりたい、そんな気持ちも抱えながらも、繊細な人からは、歩み寄ることが難しい。
なぜなら、周りの人の固定されたイメージがついてるから。
もしかしたら、歩み寄ったとしても、腫物に触ってくるような感覚が伝わり、悲しくなる繊細さんもいるかもしれない。
図太く生きられたら、どんなに楽だろうね。
でも、繊細な才能の芽が出ている人にとっては、図太く生きるということは、自分の芽を摘む行為と一緒なんじゃないかと思う。
そして、お金持ちも、そう。
お金持ちに対して色眼鏡をかけている人には、近づきたくなくなっていくのではないか。そして、同じ考え方の人と一緒にいる方が楽だから、どうしても、そこでグループが出来てしまうのではないか。
(まあ、もしかしたら、繊細さんよりも、お金持ちさんの方が、生きやすいの、かもしれないけど‥。)
お互いが歩み寄るには、どうしたら、いいんだろうか。
才能、お金、愛。
これらをすべて上手く回すには、どうすればいいのか。
きっと、これは、一人だけの力では、難しいかもしれない。
だから私は、
みんなでお金のなる木を育てたい。
みんなで才能の芽を育てたい。
それぞれの愛をもって、それぞれのお金や才能を。
そうやって、みんなそれぞれが、本当の自分を見つけたとき、本当の自分が表に出てきたとき、どうなっていくんだろうか。
本当の自分で生きる人が増え、一人ひとりが、それぞれの才能の花を咲かせ、それが満開になったとき、この地球はどんなものになるのか。
私は、見てみたい。
そのためには、ソメイヨシノのように、少しずつ繁殖させていくしかないのだろうな。(もうすでに進行中だと思うが。)
今回の私のように、これから益々、本当の自分で生きる人が増え、そして、いつか、地球が満開になる日が。
なにも「ない」状態、どん底のような経験を味わうと、裏も表も見ることが出来た。
お金は、本当に、よく出来ている。
お金を通して、いろんなものを見ることが出来た。
お金=信用。たしかに、そう。
お金を通して、お互いの信頼関係を測ることも、繋ぐことも、いかようにも出来る。そして、お金が誕生したばかりの頃は、ただの紙を信用させるのに、きっと苦労もあったことだろう。
でも、お金=単なる道具。これも、事実。
お金に囚われたり、縛られたりするのは、やっぱり違うと思った。もう少し、楽しいエネルギーでお金というものを使っていきたい。そして、私が貯金できない性質なのであれば、それはそれでいい。でも、お金に強くなりたい。#気づくの遅いよねー
お金という最強の武器を味方につけて、自分の周りにいる人たちを守っていきたいから。(これからも最強であり続けるのか見極めつつ。)
もっと言えば、お金と一緒に愛の循環も出来たら、私は、言うことないかな。
つまりは結局、お金も、愛も、才能も、全部ぜーんぶ、ほしいってこと!
これが、私の行き着いた答えです🤍神様。
#なんじゃこのオチ #読んで損したわ
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‥ん?というか、こうなるように仕向けられてたのかな?
ちくしょう。結局、神様の手の内で転がされてたのかw
原価17円の紙切れで、こんなにも学びを与えてくれるなんてね。
なんというか、神様って、いじわるだよね。#神様なんて嫌いだw
まあいっか! これで本当に私が、周りからの評価も得られるようになれば、「自分にもできるかも!?」と思ってくれる人が増えるはず‥🤍
そう、期待を込めて、ここに記します。