”漫画”とは何か、その本質について考える

 ”漫画”とはなんでしょうか。

 これは漫画を広く読まれたいと思って描いている人ならば、必ず一度は深く考える問題だと思います。「趣味」と答える人もいれば、「仕事」と答える人もいます。また、初心者と中級者、(プロを含んだ)上級者では、この質問の受け取り方も答え方も変わってきます。思い悩むことを放棄なさったり、または自分の生き様でそれを証明しようと決意なさった結果、「答えはない」とされる方もいるでしょう。

 なぜならこの問いは、子供から「時間ってなあに?」「宇宙ってなあに?」と質問された物理学者がどう答えようか思い悩むように、深く考えようと思えばいくらでも掘り下げることができるからです。

 この記事は、その深い深い問いの回答を、可能な限り噛み砕いて、明快に解説する記事です。前半部では考えるきっかけになった出来事と結論、後半部ではこの回答を応用した考え方について書いています。

 実際には”小説”でも”アニメーション”でも”映像”でも”ゲーム”でも、物語を内包するすべてのクリエイティブに応用できる真理のひとつとしてもお読みいただけると思いますが、私が漫画原作者であるがゆえに、「少なくとも(商業)漫画の本質のひとつはこれであるはずです」という意味での表題になっています。

 ここまでお読みになった方は「そんなことに回答なんかできるの?」とお思いになるかも知れませんが、私ひとりの力では当然不可能です。そもそも、”回答”があるかどうかに思いを馳せることすらできなかったと思います。

 私がこの”問い”について掘り下げて考えるようになったのは、手塚治虫先生がお答えになっている、とあるインタビュー記事でした。

 遡ること2003年、『SIGHT』という雑誌で手塚治虫先生の特集が組まれました。表題は”なぜ手塚治虫はアトムが嫌いだったのか”というショッキングなものでしたが、強く覚えているのは、各所から再録されたインタビューの中で語られていた「漫画はコミュニケーション(伝達)の道具」という言葉です。

 当該雑誌が手元になく、言葉自体も要約になってしまっているのはご容赦いただきたいのですが、その言葉は当時の私に非常に強烈な印象を残しました(17年経っても覚えているくらいです)。

 そのインタビューの中で、手塚先生は文字の成り立ち、特に象形文字(”火”や”木”などのように、そのものの形から造られた文字)についてお触れになっていて、まず”絵”という伝えるための”表現”があり、それが”文字”という形に進化した。つまるところ”絵”というのは元々が伝達の手段であり、絵と文字を組み合わせた漫画もまた、伝達の手段のひとつである、という内容だったと記憶しています。

 私は当時、「とにかく”面白い漫画を描く”」、「とにかく”読者を意識する”」という、”ひと繋がりの漠然としたフレーズ”を深堀りすることなく毎日繰り返して生きていたワナビー(ある存在になりたいが、その存在への理解が浅い人を揶揄する言葉)だったため、この記事に大変な衝撃を受けました。私が当時した言語化は、こうです。

「じゃあ”漫画”って”会話”ってこと?」

 この認識は間違っています。というか、間違ってはいないのですが”回答”には全然到達していません、ですが、私はこの浅い気付きで一枚だけ、何層にも重なった”独り善がりの漫画を描く”という呪縛の膜を剥がせた気がしたのです。

 当時は担当編集さんに付いてもらってはいたものの、デビューや連載からは遥か遠い位置にいて、「面白い漫画とは何か」というループに嵌まっていた時期です。いま立っている場所から先の展望がまったく見えない中、この認識は私の希望になりました。

 とはいえ当時はそこ止まり。それ以上深く掘り下げて考えることは出来ませんでしたが、曲りなりにも職業作家の末席に座らせていただき、漫画についてより深く考えるようになった現在の状態でなら、こう言い換えることができます。

 それは、「伝達手段としての”漫画”は、”手紙”と同じ性質を持っている」、ということです。私たちの仕事は、真心を込めて”漫画”という”手紙”を読者の皆さまに宛てて書いてゆくことです。

 この言い回し自体は私が初めて発見・発明したというわけではなく、また漫画に特有のものでもないありふれたものです(小説など他の”物語”でも同じことです)。ですが、実感として理解した者のひとりになって初めて、その言語化の先を考えられるようになったのです。

 私は『ジャンプ+』さんで週刊連載をさせていただいたとき、自分たちの作品が更新されるたび、投稿していただいたコメントを良いものも悪いものも含めて余さず読み、Twitterではエゴサーチをして言及してくださっている人たちを探し、片っ端から”いいね”を押していました(”いいね”を押すのは難色を示される方もいらっしゃったので、現在は基本的に拝見させたいただくだけにしています)。

 また、ネット以外でもファンレターやプレゼントをいただくこともありました。私たち商業作家は、こうした読者の方からの反応をいただくたびに、言葉にならない達成感と有り難さを感じながらお仕事をさせていただいています。これは本当に、すべての作家さんがそうだと思います。

 正直に隠さず言えば、私はアマチュアの頃、「ファンレターありがとう!」という作家さんの言葉に対して「本心半分、商売上のポーズ半分」だと思っていました。「この漫画は直筆のお手紙をいただくほど応援されているよ(だからきみも応援してね)」と言われている気がして、微妙な気持ちになることさえあったのです。

 ですが、商業作家になったいまなら、その気持ちが痛いほど分かります。

 この気持ちを「”漫画”という一生懸命に書いた”手紙”が、いちばん届いて欲しい読者の方に届いた。届いたのみならず、そのお返事までいただけた」と考えれば、漫画を描かない方にも理解していただけるのではないでしょうか。

 あらゆる漫画に”反応”という名の”お返事”をくださっている皆さまは、漫画と漫画に携わるすべての人を、本当に励まし、勇気付けてくださっています。

 さて、前半部で結論を書いてしまったので、ここからの後半部ではどのように連想して”手紙”という考えに至ったかという思考経路を振り返り、また、”手紙”に置き換えた場合は漫画を描く方法をどう言い換えられるかについて書き残しておきます。文章が硬いので大げさに聞こえますが、ただの連想ゲームの覚え書きです。本当にただただ思考経路と言い換えを書いているだけですので、なぜ”手紙”なのか、一発で理解できた方はお読みにならなくて大丈夫です。

 それではまず最初に、伝達手段として考えた漫画の性質について整理してみましょう。

①ある程度まとまった分量の”情報”である
②週刊・月刊・季刊・単行本など、発信できるタイミングが限られている(商業)
③会話をキャッチボールと考えると、”最初に投げる側”である
④ゆえに、読者の方に届く時点では”一方通行”である

 前に述べたように、ワナビーだった当時の私はバカのひとつ覚えのように”面白い漫画を描く”と繰り返していましたが、このフレーズを当時の気付きである”会話”に則って言い換えると、”読んでくださる方と会話をしながら、物語を面白く伝える”、ということができるでしょう。

 ですが、”会話”という理解の欠点、不完全さはまさにそこにあります。”会話”しながら伝えようにも、漫画の伝達というのは結論部にある”手紙”のように一方的であり、特に単発で終わってしまう読み切りでは、伝えきってしまうまでコミュニケーションのスタートラインにすら立てないからです。

 これでは当時繰り返していたもうひとつのフレーズ”読者を意識する”ということがどうしても難しくなってしまいます。

 幸い、現代はSNSなど発表の場に溢れているため、”手紙”ではなく”メール”や”LINE”と言っていいレベルで伝達速度の短縮が行われています。そこで私たちは毎日のように流れてくる短い、またはツリー状になった長い漫画を受け取っては、自分の中からの”反応”を、”拡散”や”いいね”、言及やリプライという形で発信し”返事”とすることができます。

 では商業誌ではどうでしょうか。先に述べた通り、商業誌では「②発信できるタイミングが限られている」ため、ワナビー時点では”意識すべき読者層”=”手紙の宛先”が茫洋として分かりません。漫画の描き方に悩んでいる状態の漫画家は、刑務所から宛先不明の手紙を書いているような気持ちで過ごしているものなのです。

 ですが、商業誌にはその”宛先”を推理・特定する助けになる存在として”担当編集者”がいます。担当編集者は、ピントの合わない”読者層”という”インクの滲んだ宛先”を、一段回クリアにしてくれる存在です。

 特に、「運良く目に留まったものの、担当編集者との付き合い方が分からない」というワナビーの方は、以下のように考えてみてはいかがでしょうか。

 彼らは「どこの誰だか分からない」という状態から、たとえば「だいたい10代後半から30代前半の男の人が読んでいるよ」「さらにその中でも、こういう事象に興味がある人が読んでいるよ」「たぶんいまなら、これについて書くと手紙がきちんと”届く”んじゃないかな」という”宛先を特定する相談”に乗ってくれる役割です。

 また、時にはあなたが描きたいと思っている以外のジャンルを薦める(例:「ラブコメ描かない?」)提案がなされることがありますが、それは「いまはラブコメを描いている人がいないから、きみの手紙が届きやすくなると思うよ(そういう手紙を募集している宛先を知っているよ)」という意味だと考えればすっきり理解できるでしょう。そこに出すか出さないかはあなた次第です。

 また、「面白いなら何でもOK」という方もいますが、その場合は「あなたの書く手紙なら間違いないと思うよ(信頼派)」「とにかく量を書いて送ればいつかどこかに届くよ(根性派)」「あなたがどういう手紙を書くかについては任せるよ(自主性派)」「あなたの書く手紙に僕は興味がないけど、ポストには入れとくよ(窓口派)」などが考えられます。この辺りは関係性によって変わってきますから、もしもこれを読んでいるのが担当編集者との付き合い方に悩んでおられる方なら、いったん”漫画”を”手紙”に置き換えてみると、考える一助になるかも知れません。

 では、”漫画”を実際に”手紙”の書き出しに置き換えてみるとどうなるでしょうか。これによって、漫画を描くときのアドバイスとしてよく言われる慣用句が頭に入ってきやすくなると思いますので、代表的なものをいくつか紹介します。

 もしも”漫画”が”手紙”なら、「漫画はキャラクターを描くものだよ」「こういう面白い人がいてね」ですし、「漫画は世界観を描くものだよ」なら「この間、こういう面白いところに行ってね」という手紙になるでしょう。ラブコメなら「こういう面白いカップルがいて、付き合う経緯はこうでね」でしょうし、描くのが悲劇なら「こういう悲しい話を聞いたんだけど…」、また二次創作なら「このキャラとこのキャラの関係性がどう尊いかというとね…」になるかも知れません。

 「誰かに宛てたもの」として考えた瞬間から、”独り言”は”手紙”に変わります。

 投函する前に読んでもらった人(たとえば担当編集者の方)から「こういう事が言いたかったの?でも伝わっていないよ」という言葉が届くこともあるでしょうから、その場合はさらに伝わるように手紙の文章を練り直すことになります。

 漫画には”面白さの壁”の手前に、”内容が分かる壁”があるとよく言われます。漫画家志望者の過半数が、この”内容が分かる壁”の手前にいるという話も聞きます。これが何故なのかも、手紙に置き換えればすぐに理解していただけるはずです。

 ”面白い・面白くない”以前に、まずは”内容が分かる手紙”を書かなければ、返事をもらうどころではないからです。

 なぜ我々は研鑽を続けなくてはならないのか。その研鑽は何のためなのかの答えもここにあります。

 それは、”漫画”という”手紙”――読んでくださった方に伝えるためのコミュニケーションの道具――の”伝わる力”を上げるために他なりません。

 ワナビーだった状態の私は、言うなれば「独り善がりの、取り留めの無い手紙」を手紙とも思わずに書いて「褒められないかな~」と思っていたに過ぎませんでした。確率が低すぎます。

 しかしなぜ確率が低いのでしょうか。それは”思いやり”が込められていないからです。

 自分がお世話になった人や、自分が好きな人・愛する人に真心を込めた手紙を書くとき、そこには必ず相手の顔が浮かんでいるはずです。不特定多数に出す以上、その顔をはっきり思い浮かべることは残念ながら不可能ですが、「この手紙はお子さんが読むはずだから、ひらがなを多めにして、難しい言葉は使わないでおこう」などの”配慮”=”思いやり”を込めることはできるはずです。

 ”手紙を読んでくださる側に対する思いやり”を身に着ける第一歩は、まず”認識”することから始まります。そして、その手紙を常により良く伝えたい人たちは、毎日の研鑽を続けたり、担当編集者に相談したりしているのです。

 以上、手塚治虫先生のインタビューから、”漫画”=”伝達手段のひとつ”と考えた結果、では他に”似ている伝達手段”はなんだろう?と考えた末のひとつの回答としての「”漫画”とは”手紙”である」という仮説になります。

 世の漫画家のみなさんは、誰かが読んでくださると信じて、その誰かに届けるために、今日も一生懸命、真心を込めて”手紙”を書いていると思います。私もまた、原作者として”手紙”を書き続けているひとりです。私たちの書いた”手紙”が、どなたかの心に届くことをいつも祈っています。

 そしてこの記事も、漫画に限らず、”手紙”を書いて誰かに届けたいと思っているみなさんの願いが叶うように、強く祈りながら書きました。

 お読みいただきありがとうございました。

 あなたの”手紙”が、この世界の誰かの心に、いつか深く届きますように。

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