真の苦しみは、〇〇が刺さるか否か・・・
原始仏教の教典「像阿含経」に、こんな話がある。
今から2500年前、古代インド・マガダ国の竹林精舎にて、ゴータマ・ブッタが弟子たちに問題を出した。
「一般の人も仏弟子も、同じ人間であることに変わりない。それゆえに、仏弟子とて喜びを感じるし、時には不快を感じ、憂いを覚えることもある。それでは、一般の人と仏弟子は何が違うのだろう?」
悟りを開いた人間といえば、何事にも心が動じないようなイメージがある。
しかし、実際には喜怒哀楽の感情を持つ点では常人と変わらず、本当に重要な違いは他にあると指摘したのである。
困惑して黙り込む弟子たちに、ゴータマ・ブッタは答えた。
「一般の人と仏弟子の違いは、二の矢が刺さるか否かだ」
生物が生き抜く過程では、ある程度の苦しみは避けられない。
捕食者の襲撃、天候不順による飢え、予期せぬ病気など、様々な苦境は誰にも等しく訪れる。
あらゆる苦しみはランダムに発生し、いかなる知性でも予測は不可能である。
これが一の矢である。
すべての生物にともなう根本の苦難からは逃れられず、最初の苦しみだけは受け入れるしかない。
この絶対的な事実を、像阿含経は一本目の矢が刺さった状態に例えたのである。
ここでところが、多くの人が二の矢を放つ。
この二の矢は誰もが経験する心理である。
・上司が理不尽な文句を付けてきたことに対し(一の矢)、自分が悪かったのか、それともあの男がリーダー失格なのかなどと思い込む(二の矢)
・同僚が昇進したことに対し(一の矢)、定期的に私の能力が低いのかなど自分を責める(二の矢)
貯金が少なくなったことに対し(一の矢)、このままでは将来の生活はどうなるのかと不安を募らせる(二の矢)
特に現代の環境では矢の数が2本で済めばいい方で、三の矢、四の矢と続けざまに自分を刺し貫く人が少なくない。