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ユージーン・スタジオ 新しい海 EUGENE STUDIO After the rainbow (東京都現代美術館2021.11.20-2022.2.23)感想

〈ホワイトペインティング〉シリーズについて。
白のモノクロームは信仰の対象、イコンとして機能するのは自明の事として、そこに口付けるというのは一見、冒涜的である。が、記録写真からはそのような印象は受けない。参加した人々は至極等身大な愛情の対象を白のモノクロームの中に投影しているように見える。そこに崇高さはない。マレーヴィチからロスコに至るまで、モダニズム絵画の崇高さを作り替える一つのやり方なのだろう(ミニマリズム的な還元とも違った方法で)。これまでの文脈では見出されないような人肌感がある。見えないが。だから想像せよというわけだ。

ところが、感染恐怖に耐えず晒されるここ数年の状況は、観者の想像力をまた違った方向に機能させてしまわないか。つまり、どうしてもそこに細菌の繁殖のような想像力が働いてしまう。
身体性を排除した点でモダニズム理論が批判されてきた文脈があるとして、接吻という身体ないしはDNAの痕跡を画面に導入した事が、過剰に機能してしまう。非身体的な白のモノクロームの崇高さを、必要以上に下落させてしまう。

いずれにせよ、それは見えないが。
画面は様々な想像を受け入れてくれる。

《私は存在するだけで光と影がある》。
太陽光で退色した翠色も、見えない時間の流れを受け入れる。一見、「冷たい抽象」のようでいて、エントロピーによって、不可逆的に、徐々に褪せていく。

あるいは金色の真鍮もまた、外界を受け入れて写し出す。けれど、今度は受け入れるばかりではない、金色の強い反射が、時折こちら側に抵抗する。《私にはすべては光り輝いて映る》。

《海庭》。
鏡もまた外界を受け入れているように見えて、その実、光を全て反射している。無限鏡の印象を心に留めたら、あとは目を閉じた方がいい。想像するなら、そこからではないか?

鏡の繋がりで言えば、同時に開催されている久保田成子展のデュシャンの四次元について思い当たる(《デュシャンの墓》)。それを蝶番に、チェスへ連想をつなげる。チェス。デュシャン的モチーフ。
《あるスポーツ史家の部屋と夢 #連弾》。金沢のde sports展で一度見たが今回はプレイヤーの映像はなし。ゲームを拡張すること。目の数が増殖したサイコロみたいに。ところでアナロジーによって、0面体のサイコロはここに存在していると言えるか?《この世界のすべて》。

存在する、しない、もしくは極薄の存在、

ユージーンスタジオ《群像のポートレート》の虹。内藤礼《color beginning》などを連想するが、違うのは、一つ一つの筆致が残っている事。群像、人物の頭に見えてくる。重要な気がしたのは、それによって上下関係が感じられる点。多様な民族の共生を謳うようでいて、階層が分かれているとも言える。一筋縄ではいかない。離れてみると虹になる、調和が取れている。けれどそれは、色の差異がなくなることでは決してない。

「共生」も「多様性」も、なんとなく表層的に、綺麗にまとまってしまう言葉なのだろう。けれど白のモノクロームの感染恐怖や、群像ポートレートの階層構造など、作品とじっくり対峙するほど問題は複雑であることに気づく。共生よりむしろ不和を見出してみる事(それなしに共生はない)。
いずれにせよ、それは見えないが。
画面は様々な想像を機能させてくれる。

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