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BUMP OF CHICKEN試論#005_ランプ(2)


◆前回のおさらい

さて、BOC試論の2曲目は、「ガラスのブルース」に引き続いてバンドの最初期曲の「ランプ」である。
前回の【BOC試論#004】では、「ランプ」の歌詞を簡単に確認したうえで、以下の3つのクエスチョンを(暫定的に)提出した。

Q1:「マッチ」とは何か?
Q2:そもそも「ランプ」を「灯す」必要はあるのか?
Q3:なぜ「泪」を「乾かす」のか?

これらの問いは恐らく相互に関連しており、ひとつずつ片づけることが難しそうな予感がある。
(前回申し上げたとおり、僕は書きながら考えているので、論の運びは割と行き当たりばったりである。)

途中で脱線する可能性は大いにあるが、とりあえず、Q1から取りかかってみよう。


◆Q1:「マッチ」とは何か?

まず、「僕」の持ち物について考えてみる。歌詞を追ってみると、「僕」が手にしているものは極めて少ない。「マッチ」、「なけなしの勇気」、そして「誇れるベストフレンド」であり「頼れるパートナー」であり「君(「僕」)自身」であるところの「ランプ」。この3つだけである。
一方で、「失くしたもの」は沢山あるようだ。
「思いつく限りの夢や理想」をつめこんだ「ポッケ」には穴が開いており、「もらえる限りの愛や安心」を入れた「鞄」はひったくられる。「夢や理想、愛、安心の類」を「僕」は落とし、盗まれている。

・持っているもの=マッチ、なけなしの勇気、ランプ
・失くしたもの=夢、理想、愛、安心の類

さて、上のように整理してみて、僕はある仮説を思いついた。
「持っているもの」は、「持っていると「僕」が気付いたもの」ではないのか。
「ランプ」の存在を「僕」が知ったのは、「僕」が「泣きだす瞬間」「くたばる寸前」に「ランプ」が「ハロー、ハロー」と呼び掛けてくれたからである。夢や理想や愛や安心を失うまで、「僕」は「ランプ」の存在を認識していなかった。つまり、「自分自身知らなかった自分自身」である。
そうであれば、「マッチ」も「なけなしの勇気」も、失くしものを失くすことで「僕」が認識=発見したものである、と考えられるだろう。

小さく震える手にはマッチ/今にもランプに火を灯す
とまらぬ泪を乾かすため/ようやく振った/なけなしの勇気

BUMP OF CHNCKEN「ランプ」作詞・作曲:藤原基央

楽曲「ランプ」はこのようにして始まる。
最初に、喪失があった。
次に、「僕」は失くしものを失くすことで「ランプ」の呼び声に気付いた。
その後、それに「火を灯すため」の「マッチ」を、「泪を乾かすため」の「なけなしの勇気」を認識したのだ。
「僕」が「マッチ」や「なけなしの勇気」や「ランプ」に気付いたのは、夢や理想や愛や安心を失くしたからである。このテーゼが真であれば、「失くさなければ気付けない」という対偶命題もまた真である。
つまり、「マッチ」「なけなしの勇気」「ランプ」はあらかじめそこに存在していた(持っていた)のではなく、「夢や理想や愛や安心(の類)」を失ったことで初めて「生成」したのだ。

さて、それでは「マッチ」は何を指す言葉なのだろうか。
これが少し難しい。
「小さく震える手にはマッチ」……。これを読むと、「小さく震える手」が「マッチ」という物を持っているように思える(というより、そうとしか読めない)。
なので、無理矢理に、強引に、「誤読」してみよう。
「に」という助詞を取り払って、「小さく震える手はマッチ」にしてみればどうだろうか。「小さく震える手」そのものが「マッチ」であると。

「マッチ」とは「ランプを灯す」ための火種である。つまり燃えている。燃える炎は「震え」ている。
「マッチ」は「夢や理想や愛や安心(の類)」を失うことで、つまりは「闇」によって生成した。そして「マッチ」が着火するためには、「摩擦」が、つまりは何かと何かが触れ合うこと必要だ。
「摩擦」を思わせる表現は、歌詞の中に二つ見出せる。「ポッケに開いてた穴」、そして「そいつを誰かにひったくられて」である。
ポケットに穴が開くのは、その生地が、手や物を出し入れしたり、椅子に座ったりして擦り切れるからである。そして、「大事にしてきた鞄」は(恐らくは)手に抱えていたところをひったくられた。夢や理想や愛や安心(の類)をしまい込み、守り、それを失う過程で、「僕」の手は過酷な「摩擦」にさらされた。そして、そのダメージがその手を「(燃える)マッチ」に変えたのだ。


◆「鏡のテーゼ」と、Q2について

そして、「マッチ」=「震える手」という等式を採用することで、僕らは「鏡のテーゼ」を本作品にも見出だすことになる。

「鏡のテーゼ」とは、「ガラスのブルース」の分析(BOC試論#003)を通じて僕が提出した、BUMPの諸作品に底流する(筈の)哲学である。
それは、「鏡」(「ガラスのブルース」においては川に流れる水)に映る自分自身を「見る」「触れる」ことが、歌うこと(生きること)には必要だ、という考えだ。

楽曲「ランプ」において、「僕」は「マッチ」を「ランプ」の芯に触れさせようとしている。「ランプ」は「自分自身知らなかった自分自身」であり、「マッチ」が「僕」の「震える手」そのものであるならば、「マッチ」で「ランプ」に火を灯すことは、自分自身(自分の鏡像)に、自分の手を伸ばし、炎の灯りでそれ(「ランプ」)を見ることに他ならない。

加えて、「僕」が自分の鏡像としての「ランプ」に気付くの(呼びかけられる)は、「僕」が「泣きだす瞬間」「くたばる寸前」であったことを思い出そう。
「ガラスのブルース」においては、猫が川にいくのは「声が枯れた」とき、つまり傷を負ったときであり、川とは「生と死の境界」であった。
つまり、「鏡」は、主体の危機を契機として登場するのである。これは、「鏡のテーゼ」の理解のために重要なポイントであろう。

そして、「僕」が「ランプ」を最初に認識したのは、「ランプ」が呼び掛けたから、つまりは「僕」の聴覚においてであった。「夢や理想や愛や安心(の類)」を失い「闇」の中にあった「僕」は、それでも「ランプ」=「鏡」の声を聴きとることができた。闇の中で認識できるものは光である。
「ガラスのブルース」では、「唄」は「星(光)」として描かれていた。楽曲「ランプ」において「ランプ」が「僕」に「呼びかける声」も、ひとつの「唄」として理解できるだろう。「鏡」は「唄」によってその主人の認識を促すことがあるのだ。

では、ここで、Q2:そもそも「ランプ」を「灯す」必要はあるのか? の検討に歩みを進めてみよう。

前回【BOC試論#004】の終盤で確認したが、この作品は「今にもマッチは芯に触れる」という一文で終わってしまう。火が灯った後のことには一切言及されないし、そもそも火が灯ったことも保証されていない。
僕の結論はこうだ。

「ランプ」に火が灯ったかどうかは、別に「どうでもいい」ことである――。

本作品で最も重要なのは、「僕」が「自分自身知らなかった自分自身」であるところの「ランプ」に気付くことであり、それに手を伸ばし、それを見ること(つまり「鏡のテーゼ」)だ。
ここで注意すべきは、「ランプ」を視覚的に「見る」だけであれば、「ランプ」に火を灯す必要はないということだ。「ランプ」自体が点灯しなくても、点灯させるために「マッチ」すなわち「震える(燃える)手」を近付ければ、「ランプ」の姿を見ることはできるのである。「鏡のテーゼ」に照らしてみれば、「ランプ」の点灯は副次的な問題に過ぎない。
勿論、「ランプ」が「照らしだ」し、「温め」、「歩くための勇気にだってなる」以上、「ランプ」が点灯することは大きな意味があることだろう。しかしその先の「僕」の歩みは、少なくとも本作品の主眼ではない。「ランプ」が点灯することで発揮する機能ではなく、そういうものが自分自身の中に存在することを認識することの方が、遥かに重要なのである。


◆Q3:なぜ「泪」を「乾かす」のか?

さて、それでは最後のクエスチョンにとりかかろう。
ここまでの議論で「ランプ」は「鏡のテーゼ」を歌う作品のひとつであることは明らかになった。そして、「鏡」は、主体の危機を契機として登場することが確認された。

「ランプ」=「鏡」を認識するためには、「僕」は「危機」に陥る必要があったのだ。「夢や理想や愛や安心(の類)」を失い、「泣きだ」したり「くたばる寸前」になったりしなくてはならなかった。
であるならば、「ランプ」においては、大切なものを失って涙を流すことは、非難されるべき失態でもなければ回復すべき事態でもなく、むしろ必要なこととして受け入れるべきことである筈だ。

つまり、「泣くこと」、「泪」が流れること自体は、別にいいのである。
「泪」は止めなくてもいい、それがいつか乾くならば。これが答えである。
「僕」に涙を流させたような喪失の経験=傷は、治さなくてもいい。なかったことにする必要はないのである。
「傷」もBUMPの重要テーマのひとつである。だが、「ガラスのブルース」でも「ランプ」でも、この言葉自体は用いられていない。また別の楽曲で、この言葉については詳細に検討を加えられたらと思う。


◆今回のまとめ

では、簡単にまとめよう。
「ランプ」の歌詞を読んで、僕らは次の3つのクエスチョンを提出した。

Q1:「マッチ」とは何か?
Q2:そもそも「ランプ」を「灯す」必要はあるのか?
Q3:なぜ「泪」を「乾かす」のか?

Q1では、「僕」が持っているもの、つまり「マッチ」「なけなしの勇気」「ランプ」は、「夢や理想や愛や安心(の類)」の喪失を機に「持っていると気づいた」もの、もっと踏み込めば「喪失によって生成したもの」であると考えた。
そして、「小さく震える手にはマッチ」を「小さく震える手はマッチ」と意図的に「誤読」することで、「マッチ」とは「夢や理想や愛や安心(の類)」を喪失する過程で摩擦(すり傷)を負った手そのもの」であるという仮説に到達した。

また、「マッチ」=「手」で「ランプ」=「自分自身」に「触れる」という構図は、「ガラスのブルース」の分析(BOC試論#003)において導かれた「鏡のテーゼ」であることを指摘した。「ガラスのブルース」では「声が枯れた」猫=傷を負った猫が川(鏡としての水面)に出向くが、「ランプ」においては、「泣きだす瞬間」「くたばる寸前」の「僕」に「ランプ(自分自身=鏡像)」が呼び掛けてくる。鏡は、主体の危機を契機として登場するのであった。
そうして、Q2は「どうでもいい」問いであるという結論が導かれる。重要なのは「ランプ」=「鏡像」に気付き、触れ、見ようとすることであり、「ランプ」それ自体に火を灯すことは些末な問題に過ぎないと考えることが可能なのであった。

最後のQ3は、「傷」についての問題であった。「僕」が「ランプ」の声を聴き、それを認識するためには、「夢や理想や愛や安心(の類)」の喪失という傷が必要だったのであり、「泪」はその喪失のために流されたのだ。「傷」が必要である以上、それによってもたらされた「泪」も否定されるものではない。「泪」を止めること、つまり「傷」を治癒させる(なかったことにする)ことを、BUMPは求めていないのである。


◆残された課題と、次回予告

以上が、「ランプ」から導出された見解である。
本作品においても、「鏡のテーゼ」、「唄」=「星(光)」といった、「ガラスのブルース」に確認されたモチーフを発見することができた。
だが、不十分な部分も残されている。

まず、「マッチ」=「震える手そのもの」というのは、一通りの説明はつけたものの、些か強引であるのは否定できない。この先も、「火」や「炎」というモチーフには出会うことになるだろう。その時に、改めて考えたい。

また、「泪を乾かす」という点については、泪を流すきっかけとしての傷を否定しない、という哲学は発見できたものの、それ以上の分析には進むことができなかった。「泪」についても、今後の課題である。

では、「ランプ」については、ひとまずここまで。
次回は1stアルバム『FLAME VEIN』から、「ナイフ」を取り上げてみたい。

お読みいただき、ありがとうございました。


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