BUMP OF CHICKEN試論#short002_子供の恋(「プラネタリウム」)
夜遅く、仕事帰りの車の中で「プラネタリウム」を聴く。
最初の一秒で、星屑の夜空が目に浮かぶ、あの美しいイントロ。BUMPは歌詞だけじゃなくて音作りも素晴らしいのだ。
「実在しない穴を開けて/恥ずかしい名前付けた」。手製のプラネタリウムに、本当は存在しない筈の「星」をつくる。(恐らくは)思春期の少年の「弱さ」「可憐さ」「情けなさ」をそんな風に表現できるなんて。本物の恋の一歩手前で立ち止まるほかない、子供と大人の狭間にある生き物の心を、こんな風に歌えるのか。
だけど、背伸びしてその「星」に手が届いてしまったあと、「この星は君じゃない/僕の夢/本当に届く訳無い光」と「彼」は言うのだ。
僕はふと思った。僕らが恋をするのは、人そのものではなく、その人に投影した「理想」なのかもしれない。幻影に憧れること、そしてそれを実際に手に入れてしまうことへの怖れと拒否。いうまでもなくこれは「子供の恋」だ。そういうものを大人は認めてはくれない。でも、そういうものがある(あった)ことは、誰もが知っている。そして、そのような美しくも無益な「恋」は、とても狭い世界=四畳半で展開されるほかない。その狭さに、世界の全てがある。そして大人になると世界は広がり、その幼稚な完全性は音を立てて崩れ去る。その雪崩を見送った時、僕らは自分が少しだけ成熟したことを知るのだ。
BUMPの音楽の中には、いつも傷付いた少年がいる。その少年が歌うからこそ、彼らは幅広い世代に支持されているのかもしれない。その傷跡や涙に、誰しも見覚えがある。「ああ、わかるよ」って頷くほかない、ありふれた、量産型の、ささやかで切実な情念や記憶を、BUMPはいつも見事な手つきで拾い上げてくる。