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ほのぼのエッセイ第18回 ピアソンくんについて

ピアソンくんは小5の時に転校してきた。ニュージーランド人と日本人のハーフだった。肌が白くて、背が高かった。僕も、成長が早くて165センチくらいあったが、それぐらいはあった。最初は、なんかいじめられてた。それまで、それとなくいじめの対象っぽくなっていた僕だったが、小5になりニキビがぶつぶつにできはじめてから、揶揄するいじめが起こった。それとなくだったものが、容姿に対する具体的なことに変わっていったのだ。

 ピアソンくんも、クラスに馴染むためもあったろうが、僕をいじめた。よーわからんタイミングでケツを蹴ってきたり、「明太子味のおにぎり」とか言ってきた。その度僕は、情けなくも先生に泣きつき、その先生がけっこう体罰も辞さない先生だったので、逆に先生はピアソンくんをやり返すように蹴飛ばしたりした。こいつチクリやんけとなり、いじめは少なくなったけど、陰口やもろもろのこいつ空気読めへんだるいやつやなぁという雰囲気は無くならなかった。ピアソンくんと僕は小5の夏ぐらいまで、冷戦状態にあった。

 ピアソンくんと仲良くなったのは、秋頃だったと思う。僕がその時好きだった、ケツメイシのさくらを歌っていたら(秋なのに?)、ピアソンくんの目が見開いた。

 「お前?ケツメイシ好きなん?」と聞いてきた。僕は「うん」と言った。

 そこから、ピアソンくんとの交流が始まった。ピアソンくんの家に、ブックオフでおかんに買ってもらったケツメイシのCDを持っていき、一緒に聞いた、ええな、ここがええなとか言い合いながら。ピアソンくんは、僕が中学1年生の兄から仕入れた、アダルトな下ネタにもめちゃくちゃ笑ってくれた。「お前、おもろいやんけ」と言ってくれた。そして、いつの間にか一緒にバスケをしたりする、にこいち的な間柄になっていた。

 小6になると、僕はピアソンくんに感化されてマイルドヤンキー風になった。ダボめのパーカーを着て、短パンを尻までずり下げて履いた。端的にいうとイキってたのだ。小学校低学年ぐらいから、木更津キャッツアイを見て、マイルドヤンキーに憧れていた僕はそれがやっとできるのが嬉しかった。

 いじめていたやつらも、ピアソンくんと僕がつるんでいるのを見て、あまり何も言ってこなくなったし、むしろおもしろキャラとして重宝されるようになった。中1の兄から知ったエロ用語を連発すれば、みんな腹を抱えて笑ってくれた。自分の居場所ができたようで、嬉しかった。それと反比例して女子人気はアホみたいに下がった。僕と肩が当たった、福泉さんという女の子が、肩を手で払うような動作をしていたのを覚えている。それぐらい、触れたくもないやつだったのだ。毛嫌いされていた。

 僕とピアソンくんは、結構調子に乗って悪いことをした。大量のストローを盗んだり、学校のバスケットボールを盗んだり、放課後教室のパソコンでおもしろフラッシュを見たりした。

 ある日、めちゃくちゃ怒られたことを覚えている。僕らの小学校は下校の際、通用門が1時間おきに開くシステムだった。不審者対策として、子ども見守りやすいようにそうしたらしい。5時間目が終わって、僕とピアソンくんはうずうずしていた。なんでこんなシステムなんや、30分も待たなあかんやんけ、と。そして、僕ら二人は正門の方に回った。フェンスを飛び越えて、外に出たのだ。すると、「待てぇ!」と怒号が飛んだ。

 校長先生の車が前を通ったのだ。僕とピアソンくんの10m斜め前くらいで車は停まり、真っ赤な顔が窓から飛び出てきた。「なにしとんじゃ!」と怒鳴っていた。怒りで顔がプルプル震えていた。

 僕とピアソンくんは、「やばい、やばい」と言いながら、反対方向に逃げた。そして、僕の家につき作戦会議をした。親は仕事でいなかった。「めっちゃ怒ってたで、どないする?」となった。ただ、今は金曜日である。土日を挟めば、もしかしたら色々うやむやになって忘れられるのではないか、もし覚えられてたとしても怒りの濃度は薄まり、そんなに怒られないのではないかという結論に達した。うし、ほな、いっちょ切り替えてスマブラでもやるかとなったその瞬間、インターホンが鳴った。

 扉を開けると、そこにはキノコ頭の担任、広瀬先生が立っていた。「なぁ、めっちゃ校長先生怒ってるので」と言ってきた。「お、怒ってるんすか」「当たり前やんか、なんでいらんことすんねん」と言われて僕は黙った。「とにかく、学校戻ってこい、校長先生が話あるって」と言って、広瀬先生は帰っていった。

 僕は、絶望だった。校長先生は朝礼中、うるさかったら子供たちを容赦なく怒鳴りつけるくらい武闘派の先生だった。全校生徒を一瞬でシーンとさせるエネルギーを僕ら二人だけで浴びるのだ。やばい。

 僕はピアソンくんに事情を話した。ピアソンくんも顔が青ざめていた。バックれようとは考えられなかった。余計、校長先生の怒りに拍車をかける。行くしかなかった。道中、僕は「もしかしたら泣いてまうかも」とピアソンくんに漏らした。ピアソンくんも「俺も」と言っていた。イキがってたガキがしんなりとしながら、学校に向かった。

 通用者の前に校長がいた。僕とピアソンくんは「校長~!」と叫びながら近寄った。謝って怒られるのは早い方がいいと思った。覚悟は決まっていた。真っ赤かの顔で僕たちを見ながら、校長は「君ら、何をしたのかわかってんのか?」と聞いてきた。僕は何を言ったらいいかわからず、「…弁解の余地もございません」と政治家のようなことを言った。なぜこんな言葉出てきたのか自分でもわからなかった。校長は、余計イラついてる感じだった。

 その後、職員室に通された。校長は、相当イライラしてるらしい。封筒をくちゃくちゃに丸めて、机にガシガシ叩きつけていた。最初は怒りを噛み殺すようにモゴモゴ要領を得ないことを言っていた。が、「だらぁ!」と突然怒鳴ってきて、僕ら二人はビクッとなった。そこから、大人を舐めるな、調子に乗るなというような旨のことを、聞かされた。僕らは平謝りだった。広瀬先生も、うちの受け持ちの生徒がすみませんと謝っていた。

 ずっと謝り続けたら、1時間くらいで説教は終わった。広瀬先生が、「もう二度とすんなよ」と釘をさして、帰っていいことになった。

 僕らは、歩きながら帰った。不思議と怒られたあとの嫌な感じはなかった。広瀬先生が一緒に怒られてくれたからかもしれない。「お前ビビってた?」とピアソンくんに聞いたら、「いや、全然」と言ってきた。僕は「嘘やろ」と言いながら、二人とも少年院から帰ってきたみたいな、勲章ができたみたいななぜか誇らしい心持ちで、帰っていった。

 その後も、二人で自作のラップを作ったり(ピアソンくんの作曲能力は素晴らしかった。デフテックみたいな爽やかなラップを作っていた)、道端で拾ったエロ漫画を読んだり、京都タワーまでチャリで行ったり、ヒョードルやノゲイラの真似事をして取っ組みあいをしたり、バスケ部でバスケをしたりした。親友といえる友達が今まで一人もいなかった僕にとって、本当に唯一無二の友達だった。

 中学に入り、僕は野球部に入った。厳しい部活だったので、遊んだりできなくなった。ピアソンくんは、眉毛を全部剃り、なんちゃってから、ほんもののヤンキーになった。中3の時同じクラスだったが、他校との抗争で暴力事件に発展し、本当に少年院にいった。でも、その時にはあまりもう必要以上に会話をすることはなかった。

 卒業してから、高校の時、まさひろくんから聞いた話。(まさひろくんは、中学からの大親友である)ピアソンと駅で会った、今は土方で働いてるらしい、そして中学の思い出話になり、「中3の時、しんぺいと同じクラスやったからめっちゃ楽しかった。やっぱあいつはおもろいって言ってたで」とまさひろくんが言っていた。

 ちゃんと僕のこと見てくれてたんだなと思って、とてもうれしかったことを覚えている。ピアソンくんがほんもののヤンキーになってから、僕のことをしょうもないって思っているのかなと勝手に思っていたけど、そうじゃなかった。彼はちゃんと僕のことを見てくれていた。忘れていなかったのだ。

 今でも、昔の友達を思い出す時、ピアソンくんのことを思い出す。今、どんな風に暮らしているんだろうか、と思うのだ。

 

 

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