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ほのぼのエッセイ第17回 ゴジラについて
ホラーは嫌いで、怖いものは嫌いだった。けど、怖いものが嫌いというのは、怖いものを逆に意識しているということで、怖いものみたさという感覚と不可分であった。と思う。
ゴジラは怖かった。でも、それがよかった。
幼稚園の頃から、特撮ものはずっと巨大生物系を見ていた。仮面ライダー、戦隊モノ(戦隊モノも巨大ロボは出てきますが)はあまり興味がなく、ずっとウルトラマンを見ていた。
巨大生物は、どこか自分にはわかりえない存在である。別の価値観で生きているような気がする。不気味な怖さが、ヒーローだろうがあった。
京都のローカルレンタルビデオ店であるビデオ1でおかんと幼稚園のころは、ウルトラマンのビデオを借りにいった。ウルトラQの白黒の映像が好きだった。サイケな画面と、でかいカタツムリが何考えてるかわからん顔で農村を蹂躙している映像を覚えている。怖いんだけど、なんかの快楽物質が脳みそに出ているのがわかった。
そして、小学生に入り、僕はゴジラにはまる。小1から小3にかけては、「ウルトラマンなんかダサいし」とうのが僕の周りでは定説になっていた。あんなもんは、作り物の子供騙しで、実際に現実世界では、あんなことは起こり得ない。信じてるなんて馬鹿だという空気が蔓延していた。僕も、みなにハブられないように、「ウルトラマンだせえよな」と言い合って、コロコロコミックやカードゲームやジャンプ漫画などに趣味が移っていった。でも、巨大生物に対する、本能的な欲望はどうしてもあった。(それは、当時の少年全員が隠し持っていたかもしれない)僕は我慢ならず、小2くらいにやっていたウルトラマンコスモスの最終回をみた。僕は、興味ない感じを装いながら、意識はテレビ画面に釘付けだった。ウルトラマンのことを、唐揚げがおいしいなとか言いながら心の中で大応援していた。周りの友達も同じようなことをしていたかもしれない。
そして、その欲望を隠しもったまま、僕は小4になった。それまでの欲望が、解放された。ダサいか、ダサくないかが全ての判断基準になる小3あたりまでで、それが小4になると自我が芽生え始めて、好きなものに対して素直でいることが、逆にいいことなのだというのがわかりはじめる。すくなくとも、僕の場合は。
きっかけは、なにかあまり覚えていない。でも、当時タガが外れたみたいに僕は巨大生物に回帰していった。初めて、映画館で見たゴジラ映画は『ゴジラ✖️モスラ✖️メカゴジラ 大怪獣総攻撃戦』だった。メカゴジラは、初代ゴジラの骨が骨格となったロボットで、ふとした時にゴジラの魂が目覚め暴走するという設定だった。自然とか生命倫理とかそういうのが、映画全体のテーマになっていた。でもテーマより、でかい怪獣たちが街をぶっ壊しながら戦っているのを見るのがたのしかった。母モスラがゴジラの熱線で燃やされて、モスラの双子の幼虫が目を真っ赤にして怒り狂っているのが、人が大袈裟に泣くよりも、悲しく感じられた。生命倫理とかいうより、大きな存在がなくなってしまうこと自体が悲しかった。
ビデオ1でおかんと、ゴジラシリーズを何度も借りて、見た。主にVSシリーズというバブル時代に作られた映画を見た。ビオランテ、スペースゴジラ、デストロイアとか。VSシリーズのゴジラは、金がかかっている感じがすごくした。歌舞伎みたいな。ゴジラが、外連味あふれる爆発にかこまれて見栄を切って戦っていた。ゴジラ✖️モスラ✖️メカゴジラと比較して、あ、今って金ない時代の特撮やねんなと子供心に思った。
そこから、ゴジラ✖️モスラ✖️メカゴジラのムック本をクリスマスプレゼントにもらって、読みあさったりした。(そこにモスラの歌の歌詞があり、全部覚えた)僕にとって、ゴジラは画面の向こうのものでもあったが、文章の向こうのものでもあった。特に昭和のゴジラはちょっと戦いがえげつなすぎて、僕の恐怖の臨海点を越えて、見れなかった。一度、『メカゴジラの逆襲』という昭和シリーズ最後のゴジラを借りて見たが、初っ端からゴジラがメカゴジラの武器で体から血を吹き出しまくり、最後の戦いでもメカゴジラとチタノザウルスというウルトラマンに出てくるムルチのぱちもんみたいな怪獣とゴジラが滅多うちをくらい、生き埋めにされて、その後子供たちの祈りで復活したゴジラがメカゴジラの首をへし折り大勝利を収めるという、なかなかの残虐ファイトであった。そこで、昭和ゴジラを“ディグる”のはやめた。怖すぎた。だから、ゴジラ怪獣大百科みたいな本をブックオフで買って、昭和ゴジラは文字の中で知識を収集するにとどめた。
ゴジラと同時にガメラも興味があったのだが、ガメラの腕がもがれたり、イリスという怪獣の腹がえぐられたり、なかなかグロテスクで怖かった。だからいつも大映のガメラのHPに行き、ガメラの必殺技やなぜ戦うのかみたいなことを文字情報でインプットした。
小4には、『小さき勇者たち』が公開された。僕はその映画のエキストラで一般公募に当選し、参加した。子役の同年代の子供たちがガメラにエネルギーの石をリレーでバトンして、ガメラのところへ持っていくというシーンで、僕は逆方向に走り怪獣から逃げ惑う群衆の中にいた。僕は選ばれし子供ではなかった。名古屋で撮影だったんだけど、鶏そぼろのロケ弁が冷えててまずかった。帰りよった喫茶店で、パフェのガラス皿を落として割ってしまった。店員のお姉さんに謝ったら、めっちゃ笑顔で「大丈夫ですよ」と言ってくれた。あの姉ちゃんは今元気だろうか。
とにかく、小学校のころは家族に無理を言って、怪獣オタクをやらせてもらった。特にばあちゃんは、僕がムービーモンスターシリーズというゴジラの人形をおもちゃ屋でねだると、毎回買ってくれた。だいぶ甘やかされていたと思う。その節は家族にありがとうと言いたい。
僕はゴジラの(あるいはガメラの)何が好きだったんだろう。それは、最初に述べた少年の誰しもがもっている巨大生物への憧れももちろんあると思う。
でも、彼ら彼女らは言葉をもたない、だから僕らは彼らの痛みを想像しなければならない。彼ら彼女らは、時に人が演技するよりももっと洗練された切実さを、表情や言葉がないが故に表現したりする。巨大怪獣を見る時、僕はなんだかずっと物悲しかった。いつもなにか足りなさを感じているようであった。いかに強い必殺技ができても、最強のメカを搭載しても。それは破壊と戦いにしか用いることができない。怪獣たちはずっと孤独なのだ。
今でも、僕が怪獣映画を見るとき、物悲しさがあるかどうかが好悪の基準になっている。だから、ハリウッドのゴジラはアクション映画として楽しめても怪獣映画としては楽しめない部分がある。僕の考えるほんとの怪獣映画を(恐悦至極ですが)またいつか見れたらと思う。
怪獣的なところは全存在が持っている。なんにでも言えることだけど、あるというのは、なくなるということである。そんな物悲しさ。僕はいろんな存在をそういうふうに感じれたらなぁとも思うのだ。